「なぜ生かされた」9歳の重荷 

対馬丸沈没の夜の記憶をたどる平良啓子さん=沖縄県東村(撮影・岡部拓也) 拡大

対馬丸沈没の夜の記憶をたどる平良啓子さん=沖縄県東村(撮影・岡部拓也)

活発な女の子だった国民学校2年のころの平良啓子さん(右端)。一緒に疎開した兄(左端)は帰らぬ人となった 沈没から60年の平和学習で、対馬丸の航路をたどった平良次子さん(右)と啓子さん=2004年8月

対馬丸の平良啓子さん(80)

 小さな頭が並び、あどけないまなざしが一心にこちらを見つめている。「あの夜」の話に耳を傾ける子どもたちを前にするといつも、暗い海にのみ込まれていったいくつもの幼い命を思い出さずにいられない。

 太平洋戦争中の1944年8月22日、米軍の魚雷攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」の生き残りとして、当時9歳だった平良啓子さん(80)=沖縄県大宜味村=は、60年以上、語り続けている。

 「私があなたたちと同じ年頃だった時の話です。潮風が心地よい夜でした…」。長崎に向けて那覇を出発して2日目の午後10時すぎ。甲板で祖母の膝枕で休んでいた。「本土に行けば雪も電車も見られるかな」。祖母、兄と姉、いとこ、義姉と一緒に、修学旅行にでも行くような気分だった。

 ドスーン。突然の爆音とともに体が飛ばされ、祖母や兄を見失った。全長約136メートルの船体が炎を上げて一気に傾き、甲板に波が押し寄せた。助けを求める子どもたちの中に、いとこの時子さんを見つけたが、大波にさらわれた。「時子!」。暗い波間に白いブラウスが遠ざかっていった。2畳ほどの竹のいかだを見つけてよじ登り、振り返ると船は跡形もなく消えていた。祖母も兄も姉の姿も…。

 9人の同乗者とともに漂流が始まった。孤独と飢え、渇き、時折襲ってくるサメの群れ。夜が明けるたび、同乗者がひとりふたりと減っていった。力尽きかけるたびに「春にはきっと会えるから」と送り出してくれた母の顔が浮かんだ。

 そのころ沖縄では親たちが半狂乱に陥っていた。沈没のうわさはあったが、疎開計画を推し進めていた旧日本軍は批判を恐れ、沈没の事実を隠し続けた。生存者たちは病院などに収容され、憲兵の監視の下、家族との連絡も遮られた。

 6日目の朝、啓子さんは奄美大島近くの無人島に漂着したところを漁師に救出された。島でも生存者はひとまとめにされたが、幸運にも啓子さんは父を知る島民にかくまわれ半年後、船で沖縄に送り届けてもらった。

 母と無事を喜び合ったが、叔母の言葉が胸に突き刺さった。「時子は一緒じゃないの?」。姉妹同然に育った2人。「啓ちゃんが行くなら私も」と出発前、一緒にランドセルに荷物を詰めた。「なぜ私だけ生き残ったのだろう」。少女は、その後の人生で重い問いを背負うことになる。

 2歳年上の小学6年の兄は泳ぎが得意だった。啓子さんは、故郷を流れる小川で兄と泳ぐのが日課だった。対馬丸に乗り込んだ夜、甲板で「沈没したらどうしよう」と怖がる姉に、兄は「沈没しても100メートル沖まで泳げるから大丈夫さ」と胸を張った。

 「沖縄戦になれば玉砕するかもしれない。優秀な君たちは生き残って、沖縄復興のために役立ってほしい」と役所に疎開を促され、真っ先に申し込んだのは兄だった。母は危険だと感じていたが「沖縄に残るよりはまし」と折れた。しかし生き残ったのは姉と義姉だけだった。

 家に戻った啓子さんの元には、わが子を送り出した親や親戚がわずかな手がかりを求めて訪ねてきた。どの顔にも後悔の色がにじんでいた。生き残った自分にできることがあるならと懸命に答えたが、思い出したくないとの思いも募った。

 19歳で小学校の教師になった。戦後もあの夜の状況が明らかにならない中、子どもたちに同じ思いをさせないために本当のことを伝えねば、と強く思うようになった。校内外の平和授業など機会があれば進んで証言した。

 次女の平良次子さん(52)も学校で母の語りを聞いて育った。何かに駆り立てられるように語る姿を目の当たりにしながら、「あの時母が死んでいたら…」と、戦争と無縁でない自分を意識するようになった。

 次子さんは1989年、郷土資料館の学芸員として戦争体験者の記録を本格的に始めた。その中には子どものころ沖縄戦で家族や友人を亡くした苦しみから何十年も記憶を封印してきた人もいた。母と同じように、生かされたことの意味を自問し続ける人もいた。

 航路の安全が確保されてなかったにもかかわらず、沖縄戦に備えて足手まといとなる子どもを送り出すことが優先された沖縄の学童疎開。沈没から60年後の2004年夏。那覇から対馬丸の航路をたどって子どもたちを宮崎や熊本の疎開先まで連れて行く平和学習を企画した。母も語り部として同乗した。初日の夜、沈没地点付近に着いた時、母は甲板に立って暗い海を見つめていた。「海の中は寒いだろうね…。あの日はもっと波が荒れていたね…」。そうつぶやく姿に、母が背負ってきたものの重さが分かった気がした。

 「語るために生かされていると思う」。そんな母の言葉を耳にするようになった。母の思いを今度は自分がつなぎたいと次子さんは思っている。

(丹村智子)

 対馬丸事件 1944年8月21日、那覇をたった学童疎開船「対馬丸」は、22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分で沈没した。国民学校の学童や教員ら乗船者1788人のうち1485人(判明分)が死亡した。犠牲者のうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると千人余の幼い命が犠牲になった。助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。


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