【人の縁の物語】<15>母さん 遺志かなえたよ 福岡市の柴崎さん 献体し海に散骨

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玄界島沖で海洋散骨する柴崎早苗さん

 クルーザーの船尾から紙に包んだ遺灰が投げ入れられた。3月末、博多湾の入り口に浮かぶ玄界島の沖。海面を色鮮やかに覆った花びらが波間に消えるのを見届けると、柴崎早苗さん(64)=福岡市城南区=は顔を上げ、晴れ晴れとした表情で語った。「やっとね、って母が言ってる」。海洋散骨は、9年前に76歳で亡くなった母が、娘に託した唯一の望みだった。

 早苗さんと、母の近村ウメノさんが一つ屋根の下に暮らしたのは、たった4年間だった。

 北九州市で育った母には重いぜんそくがあり、風邪をひくたびに発作を起こし、年の3分の1は入院した。そのため、早苗さんと双子の姉は生まれてすぐ親戚に預けられる。両親は間もなく離婚し、母は北九州市や福岡市の繁華街のスナックなどで働き生計を立てた。

 母子3人で暮らし始めたのは、早苗さんと姉が7歳の時。近所の人の話から、母の源氏名が「さなえ」であることを知った。一緒に暮らせないから、せめて娘を名乗って身近に感じようと思っていたのだろうか。だが、離れていた時間が長すぎて、姉妹と母はなかなか打ち解けられなかった。母の体調が悪くなると、姉妹は再び親戚の家を転々とすることになった。

 親子らしい交流が始まったのは、早苗さんの子育てが一段落した20年ほど前だった。母は65歳になっていた。体調が心配で同居を提案した。母が遠慮したので、代わりに徒歩10分のアパートに住んでもらい、頻繁に行き来するようにした。

 「私が死んだら海に流しなさいよ」。数年後、佐賀県唐津市の波戸岬に母娘で旅をした時、母が海を眺めながらぽつりと言った。以来「戒名やお墓はいらんきね」「何回忌とかせんで」と自身の死後について、ことあるごとに言い残すようになった。2人の娘を育ててくれた親戚にこれ以上、墓守などで迷惑を掛けたくないという思いもあったのかもしれない。

 九州大学医学部に献体登録をしていることも知った。「切り刻まれるなんて嫌」と言う早苗さんに、母は「死んでから関係あるもんね。長生きできたのは医学のおかげ。私ができる唯一の恩返し」と取り合わなかった。

 普段は多くを望まず、娘にほとんど頼み事をしない母の“遺言”。親戚は献体や散骨に反対したが「母の遺志をかなえてあげたい」と説得した。

 2004年3月、母が旅立った。発作で呼吸困難に陥った末のことだった。3年後、九大から遺骨が返ってきた。横浜に住む姉や親戚と遺骨を囲んで食事会をした後、早苗さんは自宅で6年間、遺骨を保管した。すぐに散骨しなかったのは「一緒に暮らしたあの4年間をどうしても超えたかったから」。

 海洋散骨には早苗さんと夫の時男さん(64)、母が仲良くしていた青果店の店員が参列した。「湿っぽいことは嫌いなはずだから」と喪服は着ず、笑顔で見送った。

 母が早苗さんの家で大切に育てていたパンジーやツバキの花びらが、風と共に海上に舞った。

=2013/04/23付 西日本新聞朝刊=

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