定年後に芽生えた自覚

大分県中津市 平季久さん(76)

 〈爆心地から8・5キロ、長崎市郊外で被爆した。小学1年の夏。母と畑に出ていた時のことだった〉

 北東の空にキラキラと光る飛行機が見えた。間もなく警戒警報が鳴ったので、「早く防空壕(ごう)に避難しよう」と母に呼びかけたけれど、母は「遠いから大丈夫」と手を休めなかった。

 〈閃光に続いて爆音と爆風が押し寄せ、慌てて防空壕に飛び込んだ〉

 しばらくじっとしていた。何も起きないので自宅に戻って昼食を取り、昼寝をしていたら、親戚が市街地の惨状を知らせに来た。

 〈7歳上の兄は、爆心地から800メートルの当時の瓊浦中(現長崎西高)に通学していた。帰宅途中で学校からは離れていたが、爆心地から4キロの地点で被爆。3週間、下痢や脱毛、歯茎からの出血で寝込んだ〉

 栄養のある物もなく、母は評判を聞いたエビの殻をせんじて飲ませた。思いが通じたのか、兄は元気になった。でも当日、市街地にいた叔父といとこ2人は帰ってこなかった。遺体すら見つからなかった。

 〈就職で長崎市を離れ、大分県中津市に居を構えた。40歳の時、被爆者健康手帳を取得した〉

 特段これといった症状もなく、自分は被爆者じゃないという思いが無意識のうちにあったんでしょう。長崎にいた頃も、大分に移り住んでからも、被爆体験を人に話すことはなかった。

 〈定年後の2004年、中津商高から講演を依頼され、初めて大勢の前で被爆体験を語った〉

 私でいいんじゃろうかという感じがした。実際、質問も少なかった。私自身、凄惨(せいさん)な場面は見ていないので、他の人の体験集を読み上げたからでしょう。それからですね。なぜ原爆が落とされたのか、なぜ日本は国際社会から孤立してしまったのかをいろいろ調べた。今は平和を築くための外交の大切さを説いている。

 〈07年、被爆者団体協議会の中津支部長になった〉

 被爆者と語り合う機会も増えた。犠牲になった人の無念さを思うと、逃げることはできんと思った。何もしなかったら、亡くなった人に顔向けができんでしょう。被爆者も高齢化し、体験を語れる人も先細りしている。思うようには進まないけれど、語り部を引き継ぐ人を育てていくのも、役目の一つと思っている。

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