[原爆] 全滅でも「被害は僅少」

瞬時にして焦土と化し煙突1本のみ残った広島市街の一部。1945年8月23日付の本紙2面に掲載された 拡大

瞬時にして焦土と化し煙突1本のみ残った広島市街の一部。1945年8月23日付の本紙2面に掲載された

 〈B29少数機は六日午前八時二十分頃広島市に侵入焼夷弾ならびに爆弾攻撃を行って脱去した、損害目下調査中〉

 一瞬で数万人の命を奪った広島原爆の一報は、投下翌日の西日本新聞1945年8月7日付に、わずか49字=(3)。当時は広島に支局があったが、原爆にのみこまれ、永瀬岩男記者と事務員の片山イヤノさんが犠牲になった。49文字の記事は通信社の配信を使ったとみられ、同じ紙面の宇部(山口県)や今治(愛媛県)への空襲の記事に比べ、見出しも小さい。

 以後、原爆報道は時代の流れに翻弄(ほんろう)されていく。

 投下から数時間後には、通信社を含む在京各紙の編集局長が政府情報局で会議を開催。陸軍の担当者が、大本営発表までは通常の都市爆撃と同じように扱うよう指導したとされる。

 その後、トルーマン米大統領が「これは原子爆弾である」と声明を発表した。それでも日本軍部は「新型爆弾」で押し通した。兵器の正体が分かれば、国民の戦意を奪いかねないと判断したのか。本紙8日付でも〈広島市侵入のB29 新型爆弾を使用か〉と報じた。

 星野力編集局次長は8日の日記に〈気がかりなので社に寄ってみたところ果たして大変なものなり〉と記している。原爆の破壊力と被爆地の惨状は、実は本社に伝わっていたようだ。

 翌9日、原爆は長崎市にも投下された。星野日記には、その日のうちに佐賀支局から本社へ〈長崎市はほぼ全滅の様子〉との情報が入ったとある。それでも本紙は10日付の見出しで〈長崎市に新型爆弾/被害は僅少の見込み〉とした=(4)。

 終戦まで、原爆関連の記事には過小評価と破壊力への非難が混在した。10日付では〈障子のような燃え易い物体を発火させるが、大火災になるようなことはない〉と論評。その隣には、ローマ法王庁の機関紙が原爆の非人道性を指摘したとする記事を掲載している。

 被害の実相を初めて詳報したのは終戦後、23日付だった。〈長崎全市で肉親または身寄親戚などに罹災を受けなかった者はほとんどないほどの惨状を呈している〉〈軽傷者と見られる者のなかで時日の経過に従い緑色の下痢便を排泄しつつ嘔吐を伴い次第に食欲が減退してつひに死亡する者が相当数に達している〉

 ところが9月には、原爆報道は反米感情をかきたてるとして連合国軍側が厳しい検閲を始め、一転して関連記事は激減した。被爆者の痛みが社会から顧みられることはほとんどなく、最初の援護法制度となる原爆医療法が施行されたのは、12年後の57年だった。

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