昭和流行歌編<162>松平 晃 親しき人への弔電

 松平晃は1961(昭和36)年、49歳で死去した。葬儀のときに、弔電が読み上げられた。その中に次のような追悼句があった。

 〈春まだき 親しき人の またゆきて〉

 松平を「親しき人」と詠んだのは福岡県豊前市出身の詩人、島田芳文である。松平の大ヒットになった「急げ幌(ほろ)馬車」の作詞者だ。島田はこのほかにも古賀政男が作曲し、藤山一郎の歌でヒットした「丘を越えて」(1931年)など昭和の流行歌に大きな足跡を残している。

 「丘を越えて」について古賀政男は「会社のプレスが壊れてしまうほど増刷された。まるでアンパンが売れるように売れていった」と回想している。

 「丘を越えて」は古賀も書くように「明朗で軽快な曲」の青春賛歌だ。古賀は明治大学のマンドリン倶楽部(くらぶ)時代に、すぎゆく青春を惜しむように作曲したものだ。歌詞のない倶楽部の合奏曲だった。

 古賀は自作曲「キャンプ小唄」で島田と組み、その作詞の才能を評価し、歌詞を依頼した。

 「島田さんの詩は素晴らしいもので、歯切れのいい藤山君の歌とあわせて、すっきりとした作品に仕上がった」

   ×    ×

 島田は豊前から早稲田大学に進み、小説、短歌、詩の創作に情熱を注いだ。詩人の野口雨情の弟子でもあり、大学卒業後、雨情を介して流行歌の作詞の道に入った。

 島田の生涯については郷土の研究家、松井義弘(76)の労作『青春の丘を越えて』(石風社刊)に詳しい。

 島田は1941年の「雪の満州里」の作詞を最後に、戦時の疎開として豊前に帰る。松井はこう語る。

 「戦後は時流に乗り遅れ、地元の校歌の作詞などをしていました」

 島田は多くの校歌を作詞しているが、福岡県築上町の築上西高校の校歌も島田の作品だ。校歌の2番は〈美(うる)わしのますみの空に〉で始まる。

 「丘を越えて」の歌詞の中に〈真澄の空は朗らかに〉のフレーズがある。流行歌と校歌に共通する島田ワールドの言葉「真澄」。真澄とはよく澄み切っていること。

 島田は学生時代、社会主義思想の影響を受けていた。真澄の人間、社会を求めた詩人だった。同校の小正路淑泰は言う。

 「島田さんは民謡の延長線上として流行歌の作詞をした。大衆のために、民衆のために、との思いがあったのではないか」

 松平と島田の九州コンビの歌は「急げ幌馬車」など4曲。「九州想えば」という歌もある。

 この2人に共通するのは戦前、流行歌の世界で華々しい活躍を見せながら戦後は復活できなかった。戦前から戦後の新しい丘を越えることはできなった。

 島田は松平に弔電を打った12年後の1973年、75歳で生を閉じた。

 =敬称略(田代俊一郎)

=2013/06/11付 西日本新聞夕刊=

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