昭和流行歌編<163>松平 晃 ライバルと友情

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若いころの藤山一郎ライバルと友情

 戦前、レコード会社には病院になぞらえた分野別の隠語があった。

 童謡、唱歌=小児科

 邦楽=内科

 洋楽=外科

 流行歌=婦人科

 この「婦人科」を引率したのは松平と藤山一郎だ。

 「二人は人気を二分した。共に美声で美男子だった」

 当時の周辺の人は一様にこう語っている。

 この連載の中でも触れたように、松平のデビューは藤山がレコード会社を紹介したのがきっかけだ。オーディションのときにはピアノ伴奏まで引き受けている。松平について「彼の声質は良くマイクに乗ったものだ」と高く評価していた。

 直立不動の立ち姿やきちんとした歌い方によって藤山は書体をもじって「楷書の人」と呼ばれる。それに対比してあえて松平を表すれば、自由奔放な生き方を含めて崩した字体「草書の人」といえるかもしれない。

 松平は東京音楽学校(現・東京芸大)を中退して、コロムビア専属になる。藤山は在学中、コロムビアから「酒は涙か溜息か」などのヒット曲を出し、だれもが卒業後は同社に入るものと思っていた。しかし、藤山は激しい争奪戦の中、熱心な勧誘もあってビクターに入社、さらにテイチクに移籍する。

 当時、コロンビアとビクターはライバル会社として主導権争いをしていた。また、テイチクは新興勢力として参戦していた。

 松平と藤山は違うレコード会社の看板歌手であり、ライバル同士としてヒット合戦を展開せざるを得ない状況だった。昨日の友は今日の敵、との関係になった。「楷書の人」と「草書の人」が激突しながら戦争の時代に突入する。

   ×    ×

 戦後の活動をみればライバルの勝敗の行方は一目瞭然だ。戦後、松平は歌手としては消えていく。ブラジルに渡ったり、歌謡学院を創設したり、藤山とは違った、まさに草書的な生き方で戦後を生きることになる。ただ、ライバルではあったが、戦前の流行歌の世界に身を置いた同世代の二人の関係は深いところで結びついていたともいえる。そのエピソードがある。

 松平には一人娘の和禾子(わかこ)がいた。和禾子は父と同じ大学を卒業後は作曲家、ピアニストとして音楽の道を進む。特に「北風小僧の寒太郎」など子どもの歌に多くの作品を残している。

 松平の死後、藤山は遺族のことにいつも心を配っていた。和禾子を自分の専属ピアニストに指名、コンサートなどで伴奏させた。藤山は松平の伴奏をした。その娘が藤山の伴奏をするという友情に導かれた光景である。

 松平は49歳で死去。その葬儀にも参列した藤山は1993年、82歳で生を閉じた。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/06/18付 西日本新聞夕刊=

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