昭和流行歌編<164>松平 晃 「おはら節」の芸者

「おはら節」の火付け役の喜代三「おはら節」の芸者 拡大

「おはら節」の火付け役の喜代三「おはら節」の芸者

 松平晃の「急げ幌馬車」がヒットした1934(昭和9)年に発売されたレコードの中に鹿児島民謡の「鹿児島おはら節」(ポリドール)がある。

 〈花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島〉

 松平のデュエット曲に「夕日が落ちて」があるが、相手は花柳界出の豆千代だ。戦前の流行歌の世界で活躍した一群は芸者出身者だ。

 「-おはら節」を歌った鹿児島出身の新橋喜代三(きよぞう)も芸者出身者である。地方の民謡が全国区になる火付け役を果たしたのが喜代三だった。

 きっかけになったのが西条八十、中山晋平コンビによる民謡の旅である。西条は回想する。

 「時あたかも新民謡勃興時代で、二人は手を携えて、ほとんど東京の席の暖らぬほど、東へ西へ民謡製作の旅を続けていた…旅して書いた新民謡は二百箇所に余ろう」

 喜代三が芸者をしていた鹿児島に足を踏み入れたのは、地元経済復興のために鹿児島商工会議所などが主催する「国産振興博覧会」のCMソングの制作を依頼されたからだ。

 二人は取材のために現地入り。接待の宴席の場に登場したのが喜代三である。その席で喜代三は「おはら節」を披露した。中山はその歌とともに喜代三の美貌に一目惚(ぼ)れした。度々、宴席に呼んでは喜代三の民謡を聞いた。また、喜代三は歌い方について中山に相談もしている。

 喜代三は中山に出会う前に、大きな失恋を経験していた。鹿児島から台湾に渡り、そこで恋に落ちた相手が砂糖問屋の支店に勤務していた、後の日本を代表する写真家の木村伊兵衛である。台湾から帰国後も二人の関係は続いていたが、結局は別れることになる。

   ×    ×

 中山の紹介で喜代三はデビューする。当時、売れっ子作詞家だった高橋掬太郎は喜代三の「おはら節」について次のように書いている。

 「鹿児島の人達が、歌い方がちがうと言って非難したことがある…民謡というものは、本来が、それぞれにおもうがままに歌っていい筈のものである」

 このヒットによって各社も「おはら節」を発売し、「おはら節」が全国的なブームになる。喜代三の次作「明治一代女」もヒットし、名作といわれる映画「丹下左膳余話 百万両の壺」(山中貞雄監督)のヒロインも演じ、幅広く活躍した。しかし、中山夫人の死後、1937年に中山と結婚し、あっさりと流行歌の世界から身を引いた。

 中山の死後、喜代三は1954年にカムバックし、その最初のレコードは「鹿児島おはら節」だった。九州ツアーも行い、「おはら節」を歌った。63年、59歳で死去した。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/06/25付 西日本新聞夕刊=

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