爆心地は語る<4> 被爆71年の長崎 犠牲者の遺骨 聞こえる地中の悲鳴

 原爆で町が一瞬で消えた爆心地(長崎市松山町)一帯には家々のがれきに交じり、犠牲者の遺体があちこちに横たわっていた。一家が全滅し捜す人もなく、野ざらしになったもの、黒焦げになったもの、白骨化したもの-。男女の区別さえも分からない。

 「野蛮人だ」。原爆できょうだい5人を失った被爆者の池田早苗さん(83)は被爆から半年後、爆心地で出くわした光景に「殺意を覚えた」という。進駐軍のブルドーザーは遺体ごと、がれきをごっそりとさらっていった。棒を刺した頭蓋骨を掲げて騒ぐ米兵を乗せたトラックが走り去るのも見た。

 近くにあった競技場(現在の市営陸上競技場)に「アトミックフィールド」(原子野)と名付けた飛行場を造るための道路拡張工事で、進駐軍ががれきの撤去を始めていた。

 無残に扱われる遺体を市民は看過できず、被爆翌年の1946年春、真宗大谷派長崎教務所(同市筑後町)の婦人会が中心になり、爆心地周辺の遺体収容を始め、火葬して弔った。その数は「1万~2万体」ともされる。皆、栄養不足で痩せた体で台車を引いた。引き取り手のない膨大な遺骨は、教務所の一角に今も納められている。

 教務所では毎月9日に法要が営まれ、原爆犠牲者のうち遺体が見つからなかった犠牲者の親族はここで祈りをささげる。

 市内の西川美代子さん(79)もその一人。6月、原爆投下翌日に爆心地近くで撮影され、世界的に知られた写真「黒焦げとなった少年」の可能性があると分かった谷崎昭治さん=当時(13)=の妹だ。遺体の写真はあっても、骨はどうなったのか分からない。「亡くなった母親もずっと通っていた。家族は兄の遺骨はここにあると信じてきた」

 爆心地付近で犠牲になった人の拾われなかった骨には土がかぶせられ、公園になった。その土が一度だけ剥がされたのが、96年春。公園再整備のための掘削工事だった。市民団体「平和公園の被爆遺構を保存する会」の代表の竹下芙美さん(74)は、工事現場の地中から露出していた白い骨を見つけた。当時の写真には背骨と湾曲した肋骨(ろっこつ)も写っている。素手で一部を取り上げ、残りも収集したいと市に工事中止を求めたが、かなわなかった。「鑑定では、二十歳前後の女性だったそうです。本当に申し訳なくて…。原爆で亡くなった人の無念さにも市はふたをしてしまった」

 竹下さんが見つけただけでも、遺骨は骨つぼ三つ分。その後、本格的な地中の調査がないまま今秋、原爆遺跡として国史跡に指定される爆心地。竹下さんは「地中に眠る犠牲者の悲鳴が聞こえる」という。

この記事は2016年08月05日付で、内容は当時のものです。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ