爆心地は語る<5完> 被爆71年の長崎 祈りの空間 戒めと平和の起点に

 国史跡に今秋、指定される長崎原爆遺跡に当初、爆心地(長崎市松山町)は含まれていなかった。市は、旧城山国民学校(現城山小)校舎の一部や浦上天主堂の旧鐘楼など四つの被爆遺構で構成する予定だった。

 転機は昨年10月の長崎原爆遺跡調査検討委員会の第3回会合。オブザーバー参加した文化庁の主任調査官は厳しく指摘した。「どれも規模が小さい。わが国の歴史を理解する上で欠かせないものですか」

 長崎にとって、被爆遺構の保存は宿願。原爆で壊され、劣化が進む建造物をいかに原形をとどめながら修復し、残すか。被爆地の使命を抱えながらも、市だけでは技術的にも、予算的にも厳しい。そのため、国の補助が手厚い史跡指定を目指した。

 だが、史跡としては歴史が浅く、被爆遺構としては、世界文化遺産登録の前年の1995年に原爆ドーム(広島市)が、文化財保護法の特例で指定されたのを除くと、前例がなかった。しかも、長崎には原爆ドームに匹敵する大型の被爆遺構はない。

 「どんな調査をして、どう構築すればいいのか分からなかった。四つの遺構で史跡を構成する作業は壁にぶつかっていた」と検討委事務局は明かす。調査官の言葉は関係者に重かった。

 第3回会合の後、重々しい雰囲気で酒席が開かれた。委員長の活水女子大教授の下川達弥さん(71)=考古学=が口を開いた。「爆心地を入れないでいいのか。原爆がなければ、被爆遺構も存在しない」。原爆投下時、城山小では校舎にいた132人が死亡。在籍児童約1400人が命を失った。現存する校舎には原爆の破壊力を示す爪痕が残る。これらの被害の起点は爆心地だ。

 下川さんは熱く続けた。「祈りをささげる空間遺跡として爆心地を残していくべきだ」。委員たちがうなずき、爆心地が原爆遺跡に加わった。爆心地と四つの被爆遺構を結びつけたことで、遺跡の面的な規模が広がり後世に伝える物語が生まれた。6月、文化審議会で高く評価された。

 戦後71年。被爆者は全国で毎年約1万人ずつ減り、現在約17万人。市は、被爆者の語り部活動に頼ってきた被爆継承の転換を図る。検討委が示した「もの言わぬ被爆遺構が語る原爆被害に耳を澄まそう」という取り組みもその一つだ。

 被爆前の松山町に住み、町並みを再現する復元地図を作った被爆者の内田伯(つかさ)さん(86)は、爆心地が「国の行為で戦争は始まり、結果、原爆は落とされたという後世への戒め、そして平和の出発点になってほしい」と願う。

 =おわり

この記事は2016年08月06日付で、内容は当時のものです。

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ