【揺らぐ裁き】(3)  誤判「誰にでも起こり得る」

死刑制度に反対するブラッズワースさんは「死ぬまで刑務所で生きてこそ、罪への責任を負える」と語った(米ペンシルベニア州フィラデルフィアで) 拡大

死刑制度に反対するブラッズワースさんは「死ぬまで刑務所で生きてこそ、罪への責任を負える」と語った(米ペンシルベニア州フィラデルフィアで)

 今年3月15日、米メリーランド州議会。米国で18番目となる死刑廃止の州法が賛成多数で可決されると、傍聴席の巨漢は両方のこぶしを力いっぱい突き上げた。

 カーク・ブラッズワース元死刑囚(52)。全米で初めて、DNA鑑定で無実が証明され、死刑囚監房棟から生還した。

 事件は約30年前にさかのぼる。1984年7月25日、同州ボルティモア近郊の森で性的暴行の末、殺害された9歳の少女の遺体が見つかった。白人の男が少女を連れて森に向かう姿を複数の住民が目撃していた。「背が高く、ヒゲをはやし、髪は赤かった」

 当時、現場近くに住み、似た風貌で赤毛だったブラッズワース氏が容疑者に浮上する。事件直後に引っ越したことも分かった。任意の事情聴取に一貫して否認したが、8月9日逮捕。85年3月、陪審員裁判で有罪となり、死刑を言い渡された。物証は何もなかった。

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 両手を広げると両方の壁が触れる幅、3歩で終わる奥行き。狭い空間にベッドとトイレ。小さな窓が鉄格子の外にあるだけ。「ネズミの死臭が排気口から流れ込み、ゴキブリが耳に入らないよう耳栓をして眠る日々だった」。同氏は死刑棟の様子を振り返る。

 正気を保つため詩を書き、大統領から大富豪まであらゆる人に「私は無実だ」と手紙を書き、差し入れの本をむさぼるように読んだ。その中で「DNA鑑定」という耳慣れない言葉に出くわす。

 すぐに弁護士に連絡をとり鑑定を要求。当初、捜査当局側は「証拠はすでにない」と主張したが、判事の一人が保管していることが判明する。92年、遺留品に残る犯人の体液とブラッズワース氏のDNA鑑定が実施された。結果は「不一致」。同氏は93年6月28日、釈放された。途中、終身刑に減軽されながら8年3カ月に及ぶ囚人暮らしが終わった。30万ドルの刑事補償金も支払われた。

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 だが、当時はまだDNA鑑定の信用性が低く、検察は引き続き同氏を容疑者とみなした。米メディアに「法的には無罪だが、本当に無実かどうかは分からない」とコメントしている。「罪を逃れたな」「子ども殺し」。自宅には、そんな電話が続いた。

 同氏は、運用が始まったばかりの連邦捜査局(FBI)のDNAデータベースを使い「真犯人」を特定するよう働き掛けたが、検察は「予算がない」と取り合わない。「金は出す」と申し出ると「容疑者の金で捜査はできない」と言われた。疑いの目を向けられたまま10年の月日が過ぎた。

 「お知らせがある」。2003年9月5日、検察官から突然呼び出される。「DNAデータベースで真犯人が分かった」。検察官が挙げた名前に驚いた。「何だって。その男は同じ刑務所にいた顔見知りだ」。真犯人とは約5年間、1階違いの部屋におり、度々顔を合わせていたのだ。疑いが完全に晴れるまで、実に19年を要した。

 「あなたを憎み、本当にすまなかった」。ある時、遺族の一人が同氏を訪ねた。「有罪判決を受けた私を遺族として恨んだのは当然です。私はあなたを非難しない」

 自らも苦しんだが、誤判は被害者遺族も苦しめる。今も冤罪(えんざい)をなくす活動を続ける。

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 04年、米連邦議会は無実を訴える死刑囚や服役囚にDNA鑑定への道を開く法を制定。鑑定への公費支出を盛り込み、「ブラッズワース・プログラム」と名付けられた。

 だが、再鑑定にはなおいくつものハードルがある上、20~30年前の事件ではDNA鑑定の試料が残っていないケースが多い。「米国の死刑棟や刑務所にはまだ多くの冤罪者がいる。そして、私に起きたことは誰にでも起こり得る」。ブラッズワース氏は断言する。

=2013/07/21付 西日本新聞朝刊=

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