昭和流行歌編<167>松平 晃 戦地慰問の旅

 昨年、92歳で死去した女優の森光子は自伝『人生はロングラン』の中で松平晃について次のように書いている。

 「私の歌のよくないところを教えてくださり、『ずっと引っ張るのはいいけれど、だんだん音程が下がっていたよ』などと指摘してくれるのです」

 森は1942(昭和17)年、歌手として旧満州(中国東北部)への慰問団に参加する。慰問団の団長は東海林太郎で、松平も含む総勢13人。東海林は「国境の町」、松平は「急げ幌(ほろ)馬車」のヒット作があり、大陸歌謡の両雄の歌は兵士や開拓民の大歓迎を受けた。

 この旅の中で、松平は森に歌唱のアドバイスをしたのだ。森はこの二人の前座役を務め、それぞれ2曲ずつ歌った。

 旅の途中、森のトランクが盗まれる事件もあった。この時、松平が「日本人はこの国じゃ好かれてないね」と言った言葉を森は書き込んでいる。

 松平は満州など中国大陸へ軍や新聞社の慰問団として何度も足を運んでいる。「街に唄って歩哨の勇士慰問」との見出しで新聞のニュースにも登場している。

 松平は現地で徹夜の警備にあたる歩哨に「急げ幌馬車」を歌いながら近づき、元気付けた-という内容だ。旭日旗を前に銃剣を持った歩哨と歌う松平の写真も一緒に掲載されている。記事は戦意高揚のための軍国美談の仕立てになっている。

   ×    ×

 ニュースになったのはこれだけではない。1938年の8月の新聞記事はもっと大々的に報じられている。

 大陸戦線での傷病兵を大阪に見舞った松平に、一人の重傷の兵士が「松平さんに歌ってほしい」と自ら書いた歌詞を渡した。

 〈黄昏時の病床は、心せつなや戦線に、進む日の丸戦友の…〉 

 「傷兵の涙」と題された歌詞に松平はその場で作曲して「感激に目をうるませつつも声一杯に歌った」と新聞は記している。戦争に取り込まれていくメディア、流行歌の一風景でもあった。

 このニュースの前年に日中戦争が勃発していた。戦争協力を国民に呼びかける「国民精神総動員運動」が実施され、事前検閲や発売禁止などレコード界にも規制が強化される。太平洋戦争まで戦火が拡大すると歌舞音曲は抑制され、歌手の仕事も縮小していく。

 ニュースになるのは松平がコロ厶ビアの看板スターだったからだ。しかし、同じタイプの霧島昇の入社や藤山一郎のコロムビア移籍などで、徐々に影が薄くなり、1940年にはコロムビアの専属契約を解消した。

 松平の戦地慰問は中国大陸だけでなく、シンガポールまで及ぶ。松平にとって慰問こそが残された仕事だった。同時に自分の歌をスターとして必死で聴いてくれる舞台でもあった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/07/23付 西日本新聞夕刊=

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