昭和流行歌編<168>松平 晃 歌による従軍生活

軍服姿の松平 拡大

軍服姿の松平

 戦時下、松平晃は中国戦線をはじめシンガポールなど南方戦線まで慰問し、歌った。1940(昭和15)年にコロムビアとの契約を解消した松平にとって、その後は歌による従軍が主な仕事だった。

 慰問は一度出ると半年近い長さもあった。中国には数回、シンガポールに1回。通算すれば戦地での慰問生活は2年前後に及ぶ。当時、歌手だった森光子とはほとんどの行程を共にしている。

 終戦2年前のシンガポールでは慰問団20人の団長として南方各地に足を踏み入れた。過酷な戦地での松平のささやかな慰めの一つは郷里の佐賀・嬉野のお茶だった。音楽評論家の森一也にこう語っている。

 「このお茶は、僕の持薬見たいなもので、南方の前線へ慰問に行った時も、持って行きました」

 慰問を終えたシンガポールでは同じ慰問途中の藤山一郎と再会した。松平一行の慰労のため、藤山は海軍演奏隊の指揮をとり、「軍艦行進曲」で迎えた。

 馬場マコト著『従軍歌謡慰問団』によれば、藤山はこの時の松平の印象を次のように語っている。

 「霧島昇の台頭とともに、まったくヒット曲もなくなった。その後、どうしたのだろうと思っていたら慰問団として南方を渡り歩いているとは」

 「あんなに声量豊かな若々しいバリトン歌手だったのに、はげ上がった額をオールバックにしているせいか、ずいぶん年とって見えた。戦争が松平を一気に老けさせた」

   ×    ×

 1937(昭和12)年から始まった日中戦争、そして太平洋戦争の間、戦争に関連した歌は無数に作られた。大きく分ければ軍歌だ。ただ、狭義の意味で言えば、軍歌は軍が直接作った歌、軍が命令して作った歌であり、レコード会社が商業的な戦略もあって作ったのは「戦時歌謡」と呼ばれる。

 〈勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは 手柄立てずに死なりょうか〉

 この「露営の歌」は新聞社が公募した歌詞に古関裕而が作曲した。松平、霧島昇などの歌手が吹き込み、大ヒットした。37年に南京が陥落し、戦勝のちょうちん行列で大合唱された。

 各地での戦勝のたびに、歌が生まれた。松平の「漢口特電」もその文脈にある。戦争のニュースをすぐに歌にしたことから「ニュース歌謡」というジャンルが成立した。

 ニュースだから時間との勝負だ。その緊急の作業の一端を古関裕而は自伝の中で触れている。

 要約すると、太平洋戦争突入を臨時ニュースが伝えたとき、ラジオ局はその日の夜に「海の進軍」を流した。ラジオ局から依頼を受けた古関裕而が作曲し、藤山一郎が歌った。わずか3時間で作られ、放送されたニュース歌謡だった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/07/30付 西日本新聞夕刊=

PR

PR

注目のテーマ