【人の縁の物語】<29>ゆいぶみ 「手紙」が伝える戦争(1) 出さなかった遺書

 特攻出撃の前日、遺書をしたためた時の気持ちは忘れられない。決して文字にすることはできないけれど、死にたくない-それが本音だった。

 1945年5月25日、花道柳太郎さん(88)=和歌山県日高町=は、陸軍大刀洗飛行場(福岡県大刀洗町)から特攻用重爆撃機「ト号機」で沖縄へ向けて出撃した。20歳になったばかりだった。

 配属されていたのは陸軍飛行第62戦隊。上空から爆弾を投下する重爆撃部隊として編成された。だが、太平洋戦争末期に入ると特攻作戦を行うようになる。花道さんは、飛行中に位置を測る航法士。搭乗機は、1・6トンの爆弾を積むために全ての武装が取り外され、丸腰状態だった。

 特攻は極秘の作戦だった。家族にしばらく連絡していなかったから、遺書というより、長い手紙になってしまった。爪と髪の毛を切って、ありったけの金と一緒に封筒へ入れた。「戻ってこなかったら、ここへ送ってくれ」と戦友に託した。

 覚悟はあっても死にたくなかった。貧乏で苦労している父親に、少しは楽をさせてやりたい。半面、そんなことを思う自分は国賊だ、軍人失格だという気持ちもあり、本音は押し隠していた。

 その夜、同じく出撃予定の男が「俺、行きたくない。好きな子がいるんだ」と打ち明けてきた。ああ、同じなんだ…。今も特攻隊員が残した遺書を読むたび、胸が締め付けられる。

 出撃の朝はほとんど眠れずに迎えた。食卓には戦時中とは思えない豪華な食事が並んでいた。タイの焼き物は、皿からはみ出るほどの大きさ。だが、全く喉を通らなかった。末期の水に、と一升瓶に水を満たして持ち、飛行場へ向かった。

 快晴だったが、南下するにつれて天候が崩れてきた。視界が悪く、超低空を飛んで敵艦を探し回ったが見つからない。とうとう燃料がなくなり、鹿屋(鹿児島県)の飛行場に着陸すると、帰還命令が出た。その日出撃した4機のうち、2機は戻ってこなかった。

 本来なら、約3トンの爆弾を積んだ「さくら弾機」に搭乗予定だった。前々日に焼失し、ト号機で出撃。さくら弾機は重すぎて片道の燃料しか積めなかったため、もし乗っていれば生きて戻ることはなかったという。

 再出撃の機会が訪れる前に終戦を迎えた。出さなかった遺書は「米兵に見つかったら殺される」と真っ先に焼いた。元特攻隊員だったことは、親にも妻にも隠し続ける。生き残った申し訳なさと重みがあった。

 「話さなかったら、歴史はそこで消えてしまうよ」-取材で訪ねてきた福岡県田川市のルポライター林えいだいさんの言葉に背を押され、体験を話すようになったのは戦後30年を過ぎてからだ。

 第62戦隊は28人が特攻で命を落とした。ほとんどが実戦経験のない若者だった。花道さんは今も毎朝、亡き戦友を思い、東西南北の方角へ向かって手を合わせている。

   ◆   ◆

 人の縁の物語を紡ぐ「手紙」。戦後68年、薄れゆく戦争の記憶も、文字に刻めば、人から人へ確実に伝わっていく。次代に思いを託す「遺文(ゆいぶみ)」、時間を超えて家族をつなぐ「結い文」…。この夏、四つの物語を書き記したい。

=2013/08/13付 西日本新聞朝刊=

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