昭和流行歌編<170>松平 晃 変身のための浪花節

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「妹よ」のレコードジャケット

 松平晃が戦前に吹き込んだ歌の最後は、自ら作曲した1941(昭和16)年の「妹よ」だ。前年にコロムビアとの契約を解消し、タイヘイレコードへ移籍した。新会社で起死回生を狙った歌だった。ただ、感傷的なワルツ曲は戦時下でもあり、ヒットしなかった。翌年にはフリーになった。

 10年近く、コロムビアの看板歌手として流行歌の世界を背負ってきた松平にとって、同社から追われるような契約解除は胸痛めるものだったろう。甘いマスクに甘い歌声。同じタイプの歌手、霧島昇の台頭によってスターの座を追われた-ともいわれる。

 SPレコードの専門誌『セブンエイト』は1976年の3月号で、松平の小特集をしている。この中で次のように記している。

 「戦時中のこと、彼(松平)の発声がおかしくなってきた。彼が浪花節(浪曲)に凝ってしまったこれが結果だった」

 「彼の良さは若さと甘さにあった…それが浪花節の潰(つぶ)れた発声をやって変になってしまった…家に帰れば浪花節ばかりうなるというほどの熱中の仕方ではどうにも変えようがなかった」

   ×    ×

 なぜ、松平は甘い声をつぶしてまで浪花節の世界に行こうとしたのだろうか。

 一説には「軍歌調の歌声に自分の声が合わなかった」との指摘がある。戦時下の歌声とのズレである。つぶやくような、ささやくような声から、戦意高揚のための雄々しく、鼓舞する声へ。

 移籍したタイヘイレコードの主力歌手の中に「浪花節と兵隊」などを歌った井田照夫がいた。浪花節調の流行歌手だった。この声がヒントになったかもしれない。戦時下、浪花節は根強い人気を持っていた。

 音楽学校時代、西洋音楽の基礎を学んだ松平が浪花節という日本伝統の大衆歌謡に向かったのはそこに流行歌手としての活路を見いだしたといえる。それまでの松平の衣を捨て、変身しようと思ったのではないだろうか。

 松平はコロムビアと契約解除した年には関西在住の岡田晶子と再婚し、翌年には一人娘の和禾子(わかこ)が生まれている。和禾子は「幼い頃は、(松平は)巡業に出ていたことが多いので、ほとんど知りません」と語っている。松平は慰問、巡業先から和禾子を思いやるイラスト入り手紙をたくさん家に送っている。

 松平は戦時下、ようやく落ちついた家庭を持った。夫人や子どものためにも新しい道を必死に模索した結果の一つが浪花節であったかもしれない。

 専門誌では次のように記している。

 「外見とはうらはらに行動派だったことが、彼の歌手寿命を縮めることになってしまった…葉隠れ武士の血を引く松平のこれは豪快な一面である」

 終戦は東京で迎えるが、戦後も波乱の人生が待っていた。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/08/13付 西日本新聞夕刊=

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