【人の縁の物語】<28>【紅皿】戦争と私 生かされて 花田美代子 ほか

ガスの節約ポスターと工夫する主婦(1943年) 拡大

ガスの節約ポスターと工夫する主婦(1943年)

 きょう6日は、広島原爆の日。この時期になると、読者投稿欄「紅皿」にも、記憶を次世代につなげようと、戦争に関する投稿が数多く届きます。その中から3編を紹介します。

 ●生かされて 花田美代子

 父の73回目の祥月命日。お坊さまと正信偈(しょうしんげ)を唱えながら、きょうだいもなく、母と二人きりで過ごした日を思い出す。

 私が3歳の時に父は戦死した。母の胎内に私が宿り、2カ月のつわりが苦しかった折に出征したと母から聞いた。父と私は互いに声を聞くことも、顔も見ることもなく、遠い地で父は逝った。母やまだ見ぬ子を残してどんな思いだったろう。胸中は計り知れない。言葉があったろうか…。母も、しゅうとめと私を抱えて強かったなぁ。

 博多の空襲の日。真っ赤に染まった夜空を、歯をガタガタ鳴らして母にすがりついたこと。終わった時、なぜか母も周りの大人たちも泣いていたこと。買い出しの時、ひょうたん形のカボチャが、どう持ってもズルズル滑り、泣きそうになったこと…。

 母がねんねこで赤ちゃんに見立てて背負ったミカンを、途中の駅で腕章を着けた怖いおじさんに取りあげられたこともあった。謝るだけの母を、怖くてじっと見ていた。いつまでも帰らない母を、薄ぼんやりとした駅の電灯の下で待った。母のブラウスの白が今も目に焼き付いている。あのミカンはどうなったんだろう。

 その母も今は父とどんな話をしていることか。今を私、生かされています。ありがとう。 (主婦・75歳=福岡市南区)

 ●いつも幸せ 吉田智子

 終戦から数年の夏、辺り一面の焼け跡にもそこかしこに家や店が建ち始め、街が活気を取り戻していたある日、幼い私は母と福岡市・天神を歩いていた。

 ふと前から来た見知らぬおばさんが、勢いよく母に駆け寄り「生きとったですか」と手を握った。母は驚いてその人を見て、突然、大きな涙声で「お互いに生きてて良かった」と言うと、肩を抱き合って号泣した。命のあること、生きていることが奇跡のような時代が、この福岡の空であった事実を私は絶対に忘れない。

 私の幸せを語り出せばきりがない。夫と二人きりの毎日の食事。菓子工場は51年を過ぎても継続中。息子は継がず、夫一代で終える家業だが、ますます元気いっぱいの二人は、今日の猛暑以上に燃えている。

 娘の部屋だった2階は、私の趣味の洋裁部屋となった。ミシンとロックを押し入れから出し入れすることなく、いつでも私の出番を待っている。

 生きている-その尊さを教えてくれたあのおばさんも母も、この平和な福岡の空から、街の発展をきっと喜んでいるだろう。今日は私の誕生日。72歳、おめでとう。「いつも幸せ」を体中に発信して、私は新たなスタートを切る。
 (製菓業・72歳=福岡市博多区)

 ●平和な日を 白水洋子

 私が家にいた時、お盆が過ぎたころに結婚した3人の姉たちが子どもを連れて帰ってきていた。家庭から解放された姉たちのストレス解消のおしゃべりは楽しかった。

 「うちの人は家計を考えずに本ばかり買う」「おかずも冷えたら食べんとよ」とにぎやかだ。母は笑いながら「おむこさんの悪口は言っても何にもならん。楽しかことなら何でも聞くよ」と言っていた。でも自分は、父が軍需工場をしていたので義母から「娘ばかり生んで」とつらく当たられ、長男が生まれてこいのぼりを高く立てた時にやっと責任を果たせた、と話していた。

 姉たちの話は終戦の日に疎開した話題に。戦火が激しくなったので、工場の機械を一番に運び、そこで飛行機の部品を作る予定だった。私たち家族は最後に家財道具と一緒にトラックに乗り、やっと着いた。

 工員たちが出てきたけれど、表情が暗い。「戦争は終わりました。敗戦です」。「何かの間違いじゃないか」という父に「今、玉音放送で聞きました」と涙を流している。父はがっくり肩を落とし黙っていた。

 こんなに犠牲者を出して…。4年生だった私は、もっと早く戦争をやめるべきだったと思った。全世界に一日も早く平和な日が来ることを祈っている。
 (主婦・77歳=福岡市南区)

=2013/08/06付 西日本新聞朝刊=

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