【人の縁の物語】<30>ゆいぶみ 「手紙」が伝える戦争(2) 会えずに逝った父

お盆に帰省してきた孫たちに父の遺言書を見せる花田美代子さん(左) 拡大

お盆に帰省してきた孫たちに父の遺言書を見せる花田美代子さん(左)

 《私が3歳の時に父は戦死した。(中略)母やまだ見ぬ子を残してどんな思いだったろう。胸中は計り知れない》

 6日付生活面に掲載された「紅皿」に、福岡市南区の花田美代子さん(75)はこうつづった。すっかり色あせた父の遺言書を読み返しながら。

 父の勇造さんが出征したのは、日中戦争初期の1937年夏。母、タマノさんのおなかには美代子さんが宿ったばかりで、つわりが苦しい時期だったそうだ。初めての子が娘か息子かも分からないまま「女の子だったら美代子と名付けなさい」と言付けて、中国戦線へ向かったと聞いた。

 勇造さんは陸軍の独立混成第19旅団に所属し、中国南部の広東省で警備を担当。41年夏、兵役を終えて帰国するはずだった。だが、代わりに届いたのは「6月28日に戦病死」の知らせ。娘に会えるのを楽しみにしていたのだろう。遺品の中に子ども用のチャイナ服と靴があったことを、今も鮮明に覚えている。

 声を聞くことも、顔を見ることもなかった父。ぬくもりを知らなくても恋しい、寂しいと思うことはなかった。働く母に代わり、物心ついたときから家事をこなした。母子2人、生きていくのに精いっぱいだった。

 遺言書を初めて読んだのは、中学生のころだったろうか。すり切れた封筒には、風邪のような症状が悪化し、肺炎で亡くなったと記された死亡診断書と、亡くなる3時間前に残した遺言を書き留めた便箋が入っていた。

 「お母さん、兄さん、姉さん、タマノ、妹、今、南支の空にてこの病気のために倒れることは残念である、でも運命であれば仕方がない。俺も軍人として恥ずかしくなく喜んで死んでゆく」…「ますます体を大事にして銃後で俺の代わりに邁進(まいしん)してくれ。美代子さよなら」…「大日本帝国万歳 天皇陛下万歳」

 もっと伝えたいことがあっただろう。妻にもさよならと言いたかったはず。歯がゆい、悔しいという気持ちが初めてあふれた。以来、時々、遺言書を読み返すようになった。結婚や子育てを経験し、守りたいものができてからは、悔しい気持ちはさらに強くなった。

 母は生前、父のことをほとんど話さなかった。ただ「父ちゃんがあなたを助けてくれたのよ」が口癖だった。勇造さんが亡くなる直前、美代子さんも生死をさまよう大病にかかっていたからだ。

 そんな母がある時から父の写真を飾らなくなった。32歳で逝った父。写真を見た人に「息子さんですか」と聞かれたのがきっかけだった。母が86年に77歳で亡くなった後、二人の写真を並べて飾るようになった。時折、遺影を眺めては「ようやく一緒になれた今、二人で何を話しているのだろう」と想像を巡らす。

 折に触れ、父のことや自分の戦争体験を孫たちに話して聞かせている。サイレンが鳴るたびに防空壕(ごう)に隠れたこと、福岡大空襲の日は焼夷(しょうい)弾で空が真っ赤に燃えていて怖かったこと、食べ物がなくて苦労したこと…。

 きっと想像もつかないだろう。それでも、命の価値が希薄になってしまったと感じる今、伝えなければならないと思う。写真の中の父に面ざしがよく似た孫たちには、同じ経験をしてほしくないから。


=2013/08/20付 西日本新聞朝刊=

PR

PR

注目のテーマ