【人の縁の物語】<32>ゆいぶみ 「手紙」が伝える戦争(4完) 出会いの往復書簡

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父の手紙に目を通す青木栄さん

 人生観を大きく変えたものがある。熊本市の高校教諭、青木栄さん(52)にとってそれは、長崎原爆で被爆した父、辰次さんと交わした手紙だ。

 辰次さんは佐賀県から長崎市に学徒動員されていた17歳のとき、爆心地から約2・3キロの長崎港で被爆した。爆風で海に転落し左足を骨折しながらも、岸壁のタイヤに5時間つかまり生き延びた。戦後はトラックの運転手やパチンコ店など職を転々とし、生活は常に困窮していた。

 そんな暮らしの中で、栄さんは父に反発する。思春期になると、ほとんど会話もしなくなった。教師になって1年目に父の被爆のことを知っても「なぜずっと黙っていたのか」「平和に対する意識が低いんじゃないか」ともやもやとした気持ちを抱いていた。

 転機となったのは1995年。仕事で長崎を訪れる際、父を誘った。被爆した場所を2人で巡りながら、初めて当時の様子や戦後の暮らしを聞いた。その5年後、それまでの自分の言動を悔いて、率直な気持ちをつづった手紙を送った。

 《常に死と向き合って生きてきた父さんの話を聞き、あらためて父さんを否定的に見ていた自分が間違いであったと思いました》《父さんときちんとつながるために(中略)父さんの生きてきた人生を見つめ直すことが大切だということに、やっとたどり着きました》

 約1カ月後、家に一冊のノートが届いた。《今言わなければ永久に話す事が出来ないので…》と始まり、びっしり14ページにわたって記されていたのは、父の戦後史だった。

 5人の子を養うために職を転々とし、体調を崩してまでも働いたこと。養子縁組を持ちかけられたが「かゆをすすっても子を手放すようなことはしない」と即座に断ったこと。胃がんになり、闘病生活がつらかったこと。運転手として働いている幼稚園では、朝礼で被爆体験を話して聞かせていること…。

 最後にはこうつづられていた。《子どもだから話せる事もありますが、話せない事もあります。(中略)今は心安らかに暮らしております》

 父の優しさや強さを深く感じる一方で、父を嫌い、見下してきた自分の弱さを知った。「出会い直し」のチャンスをもらったのだと思った。手紙のやりとりを続け、父は戦前の暮らしや被爆時の様子を詳しく書き残してくれた。

 《特攻隊員に志願をしていて9月15日入隊となっていた》《何千人もの全身やけどやけが人で病院中あふれ、次々と死んでゆくのは地獄そのもの》《同じ場所にいた仲間は3人が即死、1年以内に3人、10年以内に残り全員が白血病にかかって死亡した》

 絆を取り戻して1年半後の2002年、辰次さんは肝臓がんで亡くなった。享年74。「二十数年もかかってしまった。まだまだ聞きたいことがあったのに」。そんな後悔を胸に、生徒たちに自分の体験を伝えるようになった。それが、被爆二世として自分が果たすべき役割なんだという思いが強くなった。

 昨年11月、熊本被爆二世・三世の会を立ち上げ、被爆者から証言の聞き取りも始めた。活動には次女の道子さん(22)も参加している。

 《父さんから学んだことを、少しは返せる教師になれたかなあと思っています》

 =おわり

=2013/09/03付 西日本新聞朝刊=

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