昭和流行歌編<173>松平 晃 1年半のブラジル生活

 松平のレコード歌手としての最後のアルバムは1950(昭和25)年の「湖畔の灯り」である。

 40歳のこの年、キングレコードと専属契約を結び、再起をかけた歌だった。それも作詞、作曲は江口夜詩だ。戦前、「急げ幌馬車」などのヒットを飛ばしたゴールデンコンビの復活だった。ところが、思わぬアクシデントが待っていた。

 「ブラジルに行ったのが運の分かれめでした」

 松平は人生を振り返ってこのように語っている。「湖畔の灯り」をリリースした後、ブラジル興業の一行に参加する。2カ月の予定だった。

 日本人のブラジル移民は1908年に始まり、それから100年間で、13万人が入植した、といわれる。日系ブラジル人は望郷の思いが強く、故郷から遠く離れた地でその渇きを癒やす一つが歌謡曲だった。

 松平はブラジルの各地で「サーカスの唄」「花言葉の唄」など自分のヒット曲を歌った。新曲「湖畔の灯り」も歌ったかもしれない。だが、滞在予定の2カ月が1年半に延びることになった。松平は当時の様子を次のように語っている。

 「金がなくなったから帰れなかったなんて嘘(うそ)ですよ。病気をしちゃって大変な目にあった」

 「白血球だか、赤血球だかが少なくなる病気でして、疲れやすくて熱が40度も出る。それで5回も手術をした」

   ×    ×

 異国の慣れない土地での闘病生活だった。一方では「ゆっくり見物してきました」とも語っている。松平は楽天家であり、ラテンの風土に合ったかもしれない。事実、南米の楽器を収集し、現地の邦人のバンドを結成し、音楽指導まで行っている。

 「これなら夜も子どもたちも一緒に楽しめて“音楽はいいなあ”と感謝されました」

 松平は日本のテレビに生出演することはなかったが、現地のテレビにブラジル人作曲家と出演し歌っている写真も残っている。音楽家として南米音楽の魅力にもひかれ、それを日本に紹介する野心もあった。ただ、5回の手術のうち2回は全身麻酔の大手術で、「帰ってからもしばらく調子がでなかった」と語っている。

 1年半のブランクによって、キングとの契約も切れていた。また、闘病の中で声も荒れていた。流行歌手の自らのポジションについて弱音をはいている。

 「そう長続きする商売とは思わない。もう、若い人にはかないません。声では…」

 ただ、流行歌そのものの未来については強く語っている。

 「このハヤリ歌は傾向が変わってもその位置は変わりませんよ。大衆の支持は絶対でしょう」

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2013/09/03付 西日本新聞夕刊=

PR

連載 アクセスランキング

PR

注目のテーマ