昭和流行歌編<174>松平 晃 心血注いだ歌謡学院
松平晃はラジオの民放がスタートした1951(昭和26)年に、興業先のブラジルから帰国した。2カ月の予定が病気などによって1年半に延び、そのブランクが戦後の流行歌の波に乗り遅れる一因になった。
帰国後も声を含め体調は万全ではなかったが、カムバックに向けてレッスンを積んでいた。この時期、歌いたい歌についてこのように話している。
「語る歌というかシャンソン調のね、人生の積み重なりで歌う歌…」
その手本として「暗い日曜日」などで知られるフランスのシャンソン歌手、ダミアを挙げている。1953年にダミアは来日、公演は好評だった。松平はダミアのラジオ放送の録音を何度も再生して研究した。こう言い切る。
「ああいう歌い方は声なんか問題じゃない」
これはかつてのアイドル歌手の言葉ではない。若さではない。きれいな声でもない。「人生の重なり」による歌を新しい目標にした。
それだけではない。1953年からテレビ放映も始まった。本格的なメディアの時代が到来した。ニューメディアに必要なのは歌だけではなく「おしゃべり」と語っている。毎日、佐賀弁のナマリの矯正にも力を注いだ。それでも、復活の機会は来なかった。
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「日夜、私が夢に見てきたことは野に埋もれた歌手志望の人たちをなんとか立派な歌手に、聴く人の心を揺さぶり胸底深くしみ込んで、魂の糧となるような歌を歌ってくれる人を世に送り出したいと願い続けてまいりました」
1956年、松平は「松平晃歌謡学院」を立ち上げた。その第1回発表会でのあいさつで、歌手の道を捨て、後進の指導にあたることを宣言している。発表会には藤山一郎なども友情出演している。
松平の遺族の元には歌謡学院から巣立った弟子たちのEPレコードが数多く残っている。テイチクの寿賀太郎、ビクターの明石光司、東芝の五月女ひかり…。「自分よりなお一段りっぱな歌手を」と歌謡学院に心血を注いだ。
死は突然にやってきた。歌謡学院から帰宅途中の1961年3月8日、心筋梗塞で急死した。49歳。葬儀では弟子たちが松平のヒット曲「花言葉の唄」を斉唱して出棺を見送った。
「たくさんの著名な歌手が葬儀に参列され、このとき父の偉大さをあらためて感じました」
一人娘の福田和禾子はこう語ったという。
戦後、戦前の価値観は否定された。流行歌も抹殺時代が続き、「懐メロブーム」として復活するのは松平が死去してまもなくだった。
=敬称略
(田代俊一郎)
=2013/09/10付 西日本新聞夕刊=