昭和流行歌編<175>松平 晃 娘に託した音楽の道

 松平晃は1961年、心筋梗塞のために49歳で急死した。死の間際まで設立した歌謡学院の弟子たちの指導に力を注いでいた。この学院からプロデビューしたまな弟子も多い。この人たちは松平の後を継ぐ歌手だったが、松平の死によって学院も終わり、弟子育成への情熱も志半ばでついえることになった。

 こうした中で、松平の音楽への夢のバトンを受けるのは一人娘の福田和禾子だ。和禾子は回想する。

 「私が知らないころ、(父は)とても有名な歌手だったようだ。仕事は仕事、家庭は家庭と思っていたようで…」

 「私や母が放送局などに出入りすることを良く思っていなかったようで、それでも母に手を引かれて見に行った舞台の上の父をかっこいいなと思った事を覚えている」

 和禾子は1941年生まれ。幼年、少女期は「父は家を空けることが多かった」と語っているように、松平は戦地慰問や地方興行、戦後はブラジルなどにも公演にでかけ、父娘は一緒に過ごす時間は少なかった。

 松平夫人の晶子は松平について「感情だけで暮らしていたような人でした。我慢するということをできない人でした」と述懐している。松平は自由人であり、良き家庭人ではなかったようにも思える。しかし、遺族に残された夫人や娘への数え切れないほどの手紙から松平の家族愛が見てとれる。絵手紙も少なくない。

 「今日は土曜日(カレンダーの絵)です。だから、やくそくしたとほり手紙(ポストの絵)をだします。もう和禾子(絵)はげんきになりましたか。父(絵)はとてもしんぱいしてる」

 旅先から毎週土曜日には手紙を出す約束だったのだろう。風邪でもひいたのか、娘を心配する内容だ。夫人宛てにはなっているが、絵とひらがなを使った手紙は幼い娘にも読める、伝わるとの思いからだった。

   ×    ×

 和禾子は松平が中退した同じ学校である東京芸術大学の作曲科に進学する。このとき、声楽科か作曲科か、どちらを選択するか迷った。和禾子は「流行歌手になりたい」と思っていた。松平がアドバイスした。

 「歌手より作る側に回っては。作曲は長く続けられる仕事だし、まだ女性作曲家は少ないから」

 和禾子の大学の行事に松平は参観した。母校で自らの青春時代も重ね合わせたにちがいない。

 「行事のときにはうれしそうに笑っていたことを思い出す。私が音楽の道に進んだことをとても喜んでくれていた」

 和禾子が19歳のときに松平は死去した。音楽家としてその後の成長を見ることはできなかった。和禾子はジャンルは違うが、松平が助言した作曲の道で自分の世界を築くことになる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/09/17付 西日本新聞夕刊=

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