【空襲体験者の証言】真横に焼夷弾 父火だるま

中村 勝さん(76)の証言

 全身やけどの父が運ばれてきた。今の福岡市中央区今川で料理店を経営し、おとこ気があって一目置かれる存在だった。隣組の消防団でもホースの先端を持ち炎に向かっていた。そのとき、真横に焼夷弾が落ち、火だるまになったのだという。革靴を履いていた両足首から先などを除いて大やけどを負い、ぼろぼろの服の上から着物でくるまれていた。話すこともできず、ただうなっていた。

 旧国民学校1年生の私は、母や二つ違いの弟と、今川の自宅近くの墓地に逃げていた。焼夷弾で近所は火の海。庭に掘った防空壕では危険だと、墓石の間にうずくまっていた。幼くて事の重大さを理解できなかった私は、夜空を落ちる焼夷弾を「しだれ桜みたい」と眺めていた。

 朝になって近くの神社に行くと、電信柱が根本から焼けて、電線に中ぶらりんに下がっていた。境内には黒焦げの男性の遺体が横たわっていた。燃えさかる火から逃げる途中だったのだろうか。走っているように足を曲げ、背負ったリュックから飛び出した米や缶詰が散乱していた。「ウワーッ」とその場から逃げた。

 郊外(現在の西区徳永)の親戚宅に父を避難させるため、戸板に布団を敷いて寝かせ、リヤカーで運んだ。母とお手伝いさんが引くリヤカーを私も押した。空腹で暑かったが、夢中だった。通りかかった人が同情して、おにぎりをくれた。

 5日後、母が必死に看病したかいもなく、父は亡くなった。取りすがって泣く母の傍らで、私はどうしたらいいか分からない。部屋に来た親戚の男の子に曖昧に笑いかけて、母にこっぴどくしかられた。家族だけで寂しい野辺送りをした。

 父は厳しく、甘えた記憶などない。だが、戦後の家族の暮らしは貧しく、何度も「父が生きていてくれたら」と思った。高校を夜学で卒業し、家族のために働いた。結婚して、娘が生まれると、母は目の中に入れても痛くないようにかわいがってくれた。父にも抱かせてあげたかった。

 空襲だけでなく戦争は、兵士になった父親や子どもをも肉親から奪う。そのことを忘れてはいけない。

 (福岡市西区今宿東)

◆焼夷弾(しょういだん)
 発火性の薬剤の焼夷剤を組み入れた爆弾で、家屋などを焼き払うのを目的とした。米軍は日本の木造家屋を焼失させるため、ゼリー状の油脂を詰めた油脂焼夷弾を開発。福岡大空襲などでは、焼夷弾を束ねたものを空中で分解させ、地上へ降り注がせた。建物の屋根を突き破ると爆発し、油脂に着火、一面は火の海になった。ベトナム戦争で米軍が使ったナパーム弾も油脂焼夷弾の一種。

=2014/06/19付 西日本新聞朝刊= 

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