空襲 すべてを焼く 九州の傷痕に迫

※複数回の空襲の被害を累計(推計を含む)。数字は総務省の一般戦災ホームページと、自治体や民間団体などの資料を参考にした。自治体によっては判明する一部の記録のみを記載。大刀洗飛行場周辺、鳥栖市、大村市、宇佐市の被災戸数は記録がなく不明 拡大

※複数回の空襲の被害を累計(推計を含む)。数字は総務省の一般戦災ホームページと、自治体や民間団体などの資料を参考にした。自治体によっては判明する一部の記録のみを記載。大刀洗飛行場周辺、鳥栖市、大村市、宇佐市の被災戸数は記録がなく不明

 太平洋戦争下に、女性や子ども、高齢者たちを巻き込んだ米軍の無差別大量殺りく「空襲」。九州全体では、どれほどの命や家が失われ、都市や地方の町が壊滅したのか。その概数でも分かればと、私たちは取材を始めた。だが、戦後70年を前にした今も、被害の全体像をつかむことは容易ではなかった。

 軍師・黒田官兵衛の墓がある崇福寺(福岡市博多区)。観光客が押し寄せる山門をくぐり、石畳の通路から外れると、探していた「戦災親子地蔵」はあった。

 69年前のきょう、深夜からの福岡大空襲で犠牲になった母子の地蔵だ。かつては約3キロ離れた簀子(すのこ)地区(同市中央区)にあった。袈裟(けさ)姿の母地蔵にはマフラーが巻かれている。表情は泣いているようにも映る。

 その地蔵を教えてくれたのは、インターネット販売の古書店「かぼちゃ堂」の店主、首藤(すどう)卓茂(たくも)さん(66)=同市早良区。被災証言を長年掘り起こし、活字に記している。

 首藤さんが探し当てた地蔵の持ち主の証言はこうだった-。

 「空襲当日、父は遠方におり、妻と長男を亡くした。空襲で無一文になったが戦後、かつての木工所を再建した。やがて一角にお堂と地蔵を建立。般若心経を毎日あげていた。1985年に父が死去。木工所と家を売却する際、門徒総代を務めていたこの寺に移転させてもらった」

 空襲が激しかった地域にはかつて、証言者が暮らし、こうした鎮魂の地蔵などが人々の生と死、戦争を伝えていた。だが、都市化や世代交代の波にその風景は変わり、「戦争遺跡」と呼ばれる時代になった。

 「空襲なんて分かっていることだろう、という人が多い。だが、あの日、1発目がどこに投下され、人々はどう行動し、地域はどんな状況に追い込まれたのか。実はいまだに分かっていない」。首藤さんはそんな思いに突き動かされる。

 九州への空襲は、44年6月の八幡製鉄所(福岡県)への空襲から本格化し、終戦4日前の久留米大空襲(同)まで1年2カ月続く。標的となったのは都市ばかりではなく、小さな島や村までも。地図に書ききれないほどの空襲がある。空襲体験を掘り起こし、語り継ぐ意味は何だろう。

 「戦争のリアル(現実)を学ばなければ、平和を考えられない。多くの人が実感できる入り口が空襲ではないか」。そう話すのは、大分県宇佐市の地域づくり団体「豊の国宇佐市塾」代表の平田崇英(そうえい)さん(65)。同市にはかつて、海軍航空隊があり、10回の空襲があった。

 空襲の証言記録活動が始まったのは70年。有志が「東京空襲を記録する会」を発足させ、やがて九州各地にも運動は波及した。80年代からは、米軍資料からの追跡・検証運動も本格化した。日米双方の視点から、空襲の実像をあぶり出す狙いがある。ただ、記録する側の高齢化も進み、活動は厳しさを増す。

 九州各地に刻まれた空襲の記憶と傷痕。それは多世代や地域を結び直し、今この時代を考える一つの扉なのかもしれない。空襲とは何だったのか。証言をつなぎ、実像に迫る。

=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

PR

PR

注目のテーマ