【空襲体験者の証言】迫る火の手 燃える頭巾

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田島ミツ子さん

田島ミツ子さん(84)の証言

 サイレンの音で、自宅の縁側からのぞくと夜空に何十機もの機影があった。それまでも銀色のトンボほどに見えるB29が、毎日のように、どこの町を攻撃に行くのか上空を通り過ぎていた。私は、ただ、見上げるだけだった。

 機体が大きく見えたのは、いつもより低空だったからだろう。空の向こうが明るくなり、危険を感じた私たち家族は、はだしで自宅の防空壕に駆け込んだ。

 ドーンという音で外に出ると、壕の隣に焼夷弾が落ちていた。家は手のつけようがないほど燃えている。手近な荷物を持ち、家族と目の前の大濠公園に逃げた。焼夷弾が目前にタッタッタッと落ちるのを伏せてやりすごし走った。防空頭巾に火が付き、家族で消し合う。荷物の中にあった浴衣を父が水でぬらし、何度も頭からかぶせてくれた。水面には、焼夷弾の油が浮き、チロチロと小さな炎を上げていた。

 朝になり帰る途中、多くの人が焼死していた。赤ん坊を守るために、うつぶせになって事切れている母親もいた。私たちは焼け出され、11月まで防空壕とバラック小屋で暮らした。

 現在の在福岡米国領事館の敷地にあった広い家に住んでいて、空襲前は軍幹部の宿泊に供することもあった。実はあの日、皇族の宿泊施設に指名されていたが、直前に取り消され、寝具と食器を貸し出すように変更された。今も不思議に思うことだ。

 女学校2年生の私は、学徒動員で級友と工場に向かう道すがら率先して軍歌を歌い、合唱して行進するような少女だった。戦後、再開された学校の音楽の授業。最初の曲は「この道」と「かっこうワルツ」だった。久々に接する軍歌でない曲。全員が、ただただ涙を流し、歌い続けられなかった。戦争が終わったのを実感し平和をかみしめた。

 (福岡市中央区地行)


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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