【空襲体験者の証言】孤児に笑顔 希望だった

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渡辺チヱ子さん

渡辺チヱ子さん(85)の証言

 あの空襲でいったい何人の子どもたちが親きょうだいを失い、孤児になったのだろう。戦後、焼け野原となった街中には「シューシャンボーイ」と呼ばれ、靴磨きで生計を立てる子どもたちがあふれた。「パパママ、ノー」と、進駐軍に駆け寄る姿に胸が痛んだ。
 空襲時、私は鳥飼町の福岡第一師範学校女子部の1年生、16歳だった。敷地内の寮で被災。池に飛び込み、バケツリレーをしたが、校舎も寮も瞬く間に焼け落ちた。猛火の記憶も鮮烈だが、やがて小学校教員になった私には、その後の孤児たちとの思い出も深い。

 終戦直後、私たちは九大生が結成した学生同盟に加わり、孤児支援に当たった。博多駅近くの寺境内に仮設小屋を建て、食事や入浴、散髪などの世話をした。翌年からは、外地からの引き揚げ孤児も加わった。

 たくましく生きる子もいたが、表情を失った子も少なくなかった。私たちはある日、童話の「お話し会」をした。「子ダヌキのポンちゃん」は、月夜に腹鼓の練習をするずっこけ物語。無表情な子が「ハハハ」と初めて笑った。その姿にみんな泣いた。子どもの笑顔は希望だと思った。

 19歳から小学校教員。空襲体験は毎年6月、朝の会で簡単に話す程度だった。でも、人が言うから、人がするからではなく、本当に正しいことは何か、自分で考える子どもになってもらいたい。戦争への反省を込め、そんなことを子どもたちに伝え続けた。それが私の「平和授業」だった。

 空襲体験をきちんと語り始めたのは定年後。ただ、10年ほど前から学校からの依頼がめっきり減った。孤児たちはその後、どんな人生を送ったのだろう。あのころの写真を見ながら思う。

 (福岡市南区屋形原)


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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