<大刀洗飛行場空襲>近くの溝に身伏せた

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手柴豊次さん

手柴 豊次さん(81)の証言 1945.3.27

 終戦の年の3月27日は快晴だった。長姉と牛車を引き、畑に行っていた。午前11時ごろ、B29の編隊が古処山方面から銀翼を連ねて来襲した。大刀洗飛行場への猛爆が始まり、黒煙が上がった。1・5キロほど離れた場所にいた私たちは、近くの溝に身を伏せた。

 旧国民学校の6年生。その日は終業式だったが、私は旧制中学への進学が決まっており、春休みだった。別の旧国民学校の生徒たち31人が被爆し、亡くなった「頓田(とんだ)の森の悲劇」があったのはその日。4日後にも空襲があった。飛行場一帯には計7回の空襲があり、街は壊滅した。

 7月になるとグラマン機も来襲。学校からの帰途、機銃掃射を受けた。石橋の下に隠れたが、私たちを見つけると、ターンしてまた襲ってきた。神国日本は負けるはずがない、と思っていた。学校でそう刷り込まれてもきた。だが、子ども心にその時、日本は負けるかもしれないと思った。

 戦後、旧三輪町の役場職員になり、その後、合併で誕生した筑前町の初代町長になった。在任中の2009年、懸案だった「大刀洗平和記念館」を開館することができた。零戦三二型の実物、飛行場の写真や資料、特攻隊員の遺書などを展示している。

 館内では戦争の歴史を、語り継ぐ会の人たちが語ってくれている。単なるハコモノに終わらせず、メンバーが世代交代しながら、学び、語り続ける営みがうれしい。

 (福岡県筑前町)


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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