<八幡大空襲>線路脇に黒焦げ遺体

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恒成巧さん

恒成 巧さん(82)の証言  1945.8.8

 その日の午後、すすを含んだ黒い雨が降った。長崎市に原爆が落とされる前日の1945年8月8日。昼間に八幡大空襲があった。

 旧制中学2年生で、近所の鉄工所に学徒動員されていた私は、手りゅう弾の部品をつくっていた。

 鉄工所に被害はなく、夕方、自転車で被災地に行った。昨日まで住宅が並び、商店が軒を連ねていた街は燃え尽きていた。

 電車の線路脇に、性別も分からないほど黒焦げになった遺体が並べられ、「人間がこれほどの姿になるのか」とショックだった。防空壕から遺体を運び出す人には、周りの火勢が強く、防空壕の中に火炎が吸い込まれるように入り、多くの人が焼け死んだと聞いた。私より小さな遺体が、「子どもだ」と分かると、急に怖くなって必死にペダルを踏んで家に帰った。

 今の北九州市では前年6月に当時の八幡製鉄所が空襲を受けていた。今回は、その製鉄所の社宅も標的になった。兵士だけではなく市民が犠牲になったのだが、考えてみると戦争を支える鉄の生産停止につながる。それが戦争なのだ。

 家族に犠牲はなかったが、父は食料がない中、大切に取っていた白米を炊いて食べさせてくれた。いつ死んでもおかしくない中、父は「せめて生きているうちに」と思ったのだろう。


 (北九州市戸畑区牧山)


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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