<筑紫駅機銃掃射>煙上げ列車蜂の巣に

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沖幹雄さん

沖 幹雄さん(81)の証言 1945.8.8

 けがをした右腕を手ぬぐいで縛った女学生らしき女性が、頭を打ち抜かれた母親の遺体にすがりついて泣いていた。列車は機銃掃射で蜂の巣状になり、紫色の煙が立ち上っていた。

 戸板に乗せられ、次々に車両から運び出される遺体。「若い人は手伝って」と呼びかけられたが、足がすくんで動けなかった。

 旧制中学2年生の私は、疎開先の旧夜須村から福岡市に通っていた。福岡大空襲で古里は焼失していた。

 その日、下校するために乗った西鉄列車は、二日市駅の手前で緊急停車。敵機の飛来で全員が列車を降り、近くの森に避難した。急降下の音やパラパラという機銃掃射の音が遠くに聞こえた。数駅先の筑紫駅が惨劇に見舞われていた。

 帰ろうと線路脇の農道を歩きだした私を、遺体を乗せたトラックが追い越した。乾燥した道に血が流れ、においでめまいがした。

 沖縄が占領され、次は九州と言われていた。「竹やりで戦う」と思い込まされていた私たち若者に、未来はなかった。戦後、学校に赴任した米国人教師に「国破れて山河あり」と言われて、初めて「生き残れてよかった」と思えた。

 たくさんの方が犠牲になったが、私は命だけは助かった。だから「頑張らなければいけない」と思った。

 (福岡市東区和白)


※福岡県筑紫野市企画政策部によると、1945年8月8日、同市の西鉄筑紫駅で米軍機が上下2本の列車を機銃掃射。死者は64人、負傷者約100人。


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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