<熊本空襲>B29はどんな鉛筆?

片田喜久子さん 拡大

片田喜久子さん

片田 喜久子さん(92)の証言 1945.8.10

 病む母を背負ふ足許(あしもと)ふるへゐしわれ二十二歳空爆の日よ

 熊本空襲の日、破傷風で発熱し、歩けなかった母を背負って防空壕へ逃げた。当時は満足な薬もなかった。私の家は無事だったが、隣家は次々と焼け落ちた。昼間の空襲で、しばらくするとすすを含んだ黒い雨が降ってきた。消火用の水はそれしかなかった。私の家には、多くの人が雨を避け、避難してきた。皆青ざめた表情だった。

 空襲に逝きし友あり前日に別れし時の笑顔は消えず

 戦後間もなく結婚、3人の子どもに恵まれた。夫は、シンガポールなど南方戦線で従軍したが、2年前に亡くなるまで、戦場を語ることはなかった。短歌は19歳のころから日記を付けるように詠んでいた。そのころから戦争の日々だった。

 もう30年ほど前になる。幼稚園児たちと交流する機会があり、鉛筆の話になった。その時、子どもさんから「B29って、どんな鉛筆?」と聞かれ、驚いた。でも、考えてみれば、その子の親たちも戦争を知らない世代ですものね。

 そのころからでしょうか、戦争を伝えなければならないと思ったのは。戦争は災害ではない。人の力や知恵で防ぐことができる。でも、嫌だ嫌だと言っても、今も戦争は終わらない。だから入院中の病室でも詠み続けている。

 わが死なば一つの戦後失なはる約束しよういくさしないと

 (福岡市南区塩原)


=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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