徹底空爆 市民標的 米軍、冷静に攻撃目標分析

元徳山高専教授・工藤洋三氏に聞く

 全国の大都市と同様に、九州各地でも大きな被害が出た空襲。当時、通常爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下した米軍兵士たちは、火の海が広がる地上の光景をどう見ていたのか。九州への空襲はどんな戦略に基づき、戦禍は拡大したのか。研究者の分析や、米軍関係者の証言、九州各地に残る戦争遺跡を取材した。

 米軍による日本本土への初の空襲は1942年4月18日。日本の東海上にあった航空母艦から離陸したB25爆撃機の編隊が東京、名古屋、神戸を爆撃し中国大陸に飛び去ったものだった。その後、航続距離が長いB29が配備されたことで、空襲は本格化していく。通常爆弾や町を焼き払う焼夷弾、また空母の艦載機による爆撃、機銃掃射など、九州各地もさまざまな形で攻撃された。その多様な空襲の背景には、戦況の進行に伴う目的の変化があった。

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 当初、最も優先されたのは、製鉄所の破壊。中国・成都に建設した飛行場を離陸したB29が44年6月16日、今の北九州市の八幡製鉄所を直接、空襲した。日本本土に近い飛行場を基地にした空襲の最初で、同時に九州が爆撃された第1号でもあった。米軍は、安全なインドに拠点を置き、空輸で物資などを前線基地・成都に補給。そのため効率は悪かった。加えて、成都からは本州を攻撃することができない課題もあった。

 米軍は、同年夏までにサイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島を占領し、飛行場を確保。本州を作戦範囲に入れた。その後、重要な役割を果たしたのが、B29を写真偵察用に改装したF13。高高度から安全に都市の写真を撮影して詳細に分析。爆撃に役立てた。

 米軍内では、経済的に打撃を与えることで戦争の早期終結を図ろうと、木造家屋が多い日本の都市への焼夷弾攻撃が早い時期から唱えられていた。攻撃目標は大きくとらえると、製鉄所から飛行機のエンジン工場などへ、そして市民が暮らす都市へと変わっていった。

 沖縄本島への上陸を予定した45年4月1日前に、陽動作戦として3月10日の東京をはじめ名古屋、大阪、神戸の主要都市を焼夷弾攻撃。九州でも3月18、19日に艦載機に各地の施設が攻撃された。

 沖縄戦の支援を目的に、都市爆撃が主任務だったB29による飛行場爆撃もあった。特攻機の発進基地を破壊して、離陸できないようにするためだった。当時、「太刀洗飛行場」と称されていた福岡県の基地が3月27日に空襲に遭ったのをはじめ、九州、四国各地の飛行場が攻撃対象とされた。

 沖縄を占領した米軍は、次に11月1日に南九州に上陸する作戦を計画。硫黄島戦や沖縄戦で予想以上の犠牲を出した反省から、上陸作戦の安全を図るために、九州の駅、鉄道橋など日本軍を運ぶ輸送網の寸断が重視された。福岡県の西鉄筑紫駅への機銃掃射や鉄道橋への攻撃などがあり、終戦4日前の8月11日にあった久留米大空襲も、交通の結節点の破壊が目的だった。

 一方、大都市空襲は45年6月15日の大阪・尼崎で終了。日本をさらに経済的に疲弊させ降伏に追い込もうと17日以降は福岡市など地方都市の同時空襲が始まった。6月下旬に沖縄での組織的な戦闘が終結。7月になると沖縄の米・極東航空軍が連日のように九州の都市や交通施設を攻撃した。

 米軍記録からは、効率的で効果がある作戦が常に練られたことが分かる。いったん始めれば、相手がぼろぼろになるまで終わらないのが戦争だ。始めない方がいいのだと強く感じる。そのためには誰もが考え、判断するための材料が必要。地道なことだが、米軍、日本軍の記録から、未公表なことも含めて事実を明らかにして、本に書き留めていきたい。 (談)

くどう・ようぞう

 1950年、宮崎県生まれ。山口大学工学部修士課程修了、工学博士。元徳山高専教授。主な著書に「写真が語る日本空襲」(共著、現代史料出版)「原爆投下部隊」(同、自費出版)など。

=2014/06/19付 西日本新聞朝刊=

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