やってはいけない作戦 人間魚雷「回天」元搭乗員の証言

東 努さん(89)の証言

 航空兵は敵を撃ち落とすのを目的に飛行機の操縦を覚える。一方、人間魚雷「回天」の搭乗員は自爆するために操縦法を数カ月かけて学ぶ。平和な時代に、死ぬために一生懸命になる心境は理解できないかもしれないが、訓練に没頭した。死と向き合う時間は、空の特攻兵に比べて、海の特攻兵の方が格段に長かった。

 今では、それが異常な考えだと分かるが、当時はそういう世の中だった。飛行機乗りに憧れていた17歳の私は、血書の嘆願書を添えて海軍飛行予科練習生(予科練)を志願したほどだ。

 そこで10カ月の訓練を終えた1944年8月、武道場に集められ、上官に言われた。「新兵器が完成した。肉薄攻撃兵器で命の保証はないが、これに乗るのはおまえたちが最適だ」。紙を配られ、(1)熱望(2)志望(3)志望せず-の3択で回答を迫られた。考える時間は15分ほどだったか。熱望に二重丸を書いた。早く戦地に行きたかったし、新兵器に好奇心も湧いた。

 10月に山口県の大津島で訓練が始まった。初めて実物を見たとき、まず機首の爆薬を切り離す装置を探した。爆薬はボルトでしっかりつながれており、完全な自爆兵器だと分かった。恐怖心より「これで零戦に乗る夢が消えた」という落胆のほうが大きかった。

  回天は操縦が非常に難しく、訓練中に命を落とした人も少なくなかった。いつ死ぬか分からない。練習で搭乗するときでも「死に装束」としてきれいな衣服を着込んだ。回天の数そのものが少ないので出撃命令はなかなか下らず、上官の部屋に押しかけて直訴したこともあった。

 出撃しないまま終戦を迎えた。45年8月17日、正装した上官が回天の上に乗りピストルで自決した。部下を送り出した責任を取ったのだと思う。1週間ほどして部隊は解散となり、機密書類を焼却。部品は海中に捨てた。米兵に会ったらたたき切ってやろうと、腰に日本刀を差したまま九州へ帰った。

 戦後は長崎と福岡の炭鉱で働き、事故で鉱員20人ほどの死を見てきた。閉山後は転職し、小さな会社をつくった。苦しい時期もあったが、人間は希望があれば命がけで頑張れる。軍隊で度胸は鍛えられた。

 特攻について「洗脳されていたのでは」という人がいるが、国や家族を守るために覚悟を決めたことに私は誇りを持っている。ただ、特攻は映画や小説のような美しい話ではない。やってはいけない、本当にむごい作戦だ。

(福岡県志免町)

回天
 太平洋戦争末期に開発された海軍の特攻兵器で、操縦席の人間ごと敵艦に体当たりする魚雷。「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という考えから、1944年8月に正式採用。高性能の九三式魚雷を改造し、全長14.75メートル、直径1メートル。巨大艦も一撃で沈める威力だったとされる。現在の山口県周南市などに基地が造られ、1375人が訓練を受け、終戦までに延べ148人が出撃した。訓練中の事故も含め145人の若者が犠牲となった。

=2014/07/29付 西日本新聞朝刊=

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