特攻 戦術でなく「儀礼」  国民が期待、やめられず

福岡市博物館館長・有馬 学氏に聞く

 昭和史について最も根源的な疑問は、「なぜ日本はあんな愚かな戦争をしたのか」ということだろうが、それは後になって歴史的な事実が分かっているから問えることである。後からさまざまな事象への解釈をつなぎ合わせ、あたかもさまざまな事柄が必然的に生じたかのように語るべきではないだろう。

 1931年に満州事変の発端になる柳条湖事件が起きたとき、15年間も戦争が続き、そして悲劇的な敗戦を迎えるとは誰が思っただろうか。歴史を振り返るには、その時代の人が、何を感じ、どう考えたのか。可能な限り、その時代の人々の視点に立って考えることが重要だ。

 それを踏まえて、特攻についてもディテールを見ていくべきだ。圧倒的な軍備を擁した米軍に対し、日本軍は劣勢だった。フィリピン・レイテ島の戦いは、米軍を迎え撃つためには、航空機や熟練パイロットの数が足りず、取りあえず米軍の航空母艦を使えないようにしようという狙いで特攻は始められた。生還して何度も攻撃する方が効果的だという意見も当然あった。

 大岡昇平の「レイテ戦記」に興味深い話がある。あるパイロットが特攻への志願を迷っていた。彼は技能的に未熟な自分が手を挙げていいものか悩んでいたというのだ。つまり当初は、戦術的な効果という観点から技術的な要素が重んじられたのだ。戦争末期には、訓練時間が足りない若者が多く出撃するなど精神性が重視されるようになった。


 重要なのは、なぜ、そうまでして特攻が続けられたのかということだ。44年の最初の特攻の戦果報道にはうそが入っていたが、多くの国民は支持した。出撃する者は後に続く者を信じ、国民は誰かが続いて出撃するのを願った。特攻という行為が崇高だとされ、それが続くのを誰もが期待した。

 戦術は効果がなければ変えるものだ。だが、特攻はもはや戦術ではなく、崇高な行為を続ける儀礼的なものへと変わっていった。犠牲的な行為が日本人の精神性の高さを示すという考え方が支配的になり、そうなると国民に批判されないように、特攻をやめることはできなくなった。国民もまた特攻の継続に加担したといっていいだろう。

 それを突き詰めて考えると、玉砕という考えにもつながると思う。サイパンで、沖縄で、兵士だけでなく多くの民間人が玉砕したが、それは「銃後」にいた人々が戦場に直面し、自分たちも戦うという心理になったのではないか。国民の多くが、特攻で華々しく散華してほしいと願った気持ちの中には、「最後は私たちも」という意識があったのではないかと思う。

 特攻については、「尊い犠牲が戦後の平和、繁栄につながった」と意義を認める見方と、「犬死にだった」と否定する意見が対立する。戦死者を悼む遺族が意味を見いだし納得しようとするのは当然だし、逆に批判する立場も否定はできない。だが、いずれの言い分も、それぞれの立場を納得させるものではあろうが、それが正しいと論理的に証明できるものではない。特攻の是非論とは別に、その時代の視点を踏まえた歴史の評価が肝要である。

有馬 学(ありま・まなぶ)
 1945年、北京生まれ。東京大卒。東京大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。日本近代史専攻。九州大教授などを経て、2012年4月から現職。主な著書に「帝国の昭和」(講談社学術文庫)など。

=2014/07/29付 西日本新聞朝刊=

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