終戦8・15の記憶 昭和天皇「人の声」

 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」-。昭和天皇は1945年8月15日正午、ラジオを通じて日本の敗戦を国民に告げた。満州事変から日中戦争、太平洋戦争と拡大した戦局は14年におよび、空前絶後の310万人が犠牲となった。不戦を誓った戦後日本の原点「8・15」。九州ゆかりの戦争体験者は、歴史的な一日をどう過ごしたのか。証言を基に再現する。 

 「握り拳を膝に打ち付ける者、涙を止められない者がいた」。敗戦にうちひしがれる軍人たちの姿を記憶する人がいる一方、当時の微妙な空気を映し出す証言もある。

 宮原弘子さん(85)=福岡県粕屋町=は、学徒動員された軍需工場の寮の広場で放送を聞いた。

 「今から天皇陛下の大切なお言葉があるから、心して聞くように」。寮長に指示され、砂の上に正座して耳を傾けた。ラジオから流れてきたのは、初めて聞く昭和天皇の声。「人間の声だね」。友人たちとささやき合ったのを覚えている。

 放送後、友人たちがざわつき始めた。「はよ逃げんと米兵に殺される」「髪の毛を切って顔に炭を塗らんと連れて行かれる」。宮原さんも、うわさを信じて山中に隠れたという。

 死と隣り合わせの空襲、飢え、物資不足。国民生活を限界に追い込んだ戦争の終結は、絶望の先にある小さな光明でもあった。「ありがたい」。福岡市東区の小原康子さん(81)は、母や叔母たちの言葉が耳にこびりついている。

 福岡県宇美町の有森紀美子さん(76)は1938年2月生まれ。生後15日、福岡市の自宅に父が戦死した知らせが届いたと後に聞かされた。「父のぬくもりも厳しさも知らないまま、お父さんと呼ぶこともなく生きてきた」

 終戦時は、佐賀県北山村(佐賀市)の山村に疎開していた。都市部に比べ、米や砂糖などの食料が豊富で、のどかな環境。「終戦を実感したのは、今からすれば米兵だった」と振り返る。

 9月ごろ、山村に米兵2人が現れた。「日本の女性を襲う」と恐れられていた彼らの素顔は違った。頭をさすりながら、笑顔でチョコレートをくれた。初めての異国の味と、軍服に帽子をかぶった米兵の姿が今も忘れられない。

 「今後、日本が戦争のない平和な国であることを信じている」「戦争の悲惨さを決して忘れてはならず、次世代に伝えていかなければ」。戦後生まれの記者たちが、老いを深める証言者たちから託された切なる思いを、ここに書き残しておきたい。


=2014/08/15付 西日本新聞朝刊=

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