太平洋戦線 傷痕今も 「ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア」

海外戦没者240万人 未収集遺骨112万柱

 「ジャワは天国、ビルマ(現ミャンマー)は地獄、死んでも帰れぬニューギニア」。太平洋戦争末期、圧倒的な戦力で迫る連合軍を前に、海外の戦地で苦戦を強いられた日本兵たちは、そう口にした。

 補給を軽視した無謀な作戦の結果、悲惨な撤退を強いられ、その退路が「白骨街道」と呼ばれたビルマ戦線。ジャングルを行軍する兵士が、マラリアなどの病気や飢餓に倒れたニューギニアの戦い。九州で編成された部隊も、そうした過酷な戦場に派遣され戦った。

 1941年12月8日、米国のハワイ・真珠湾への奇襲攻撃と英領マレー半島への上陸作戦で始まった太平洋戦争は、緒戦で石油などの資源が豊かなオランダ領東インド諸島などを占領。南西太平洋のラバウル、ガダルカナルなどへも支配圏を広げていった。

 しかし、42年6月にミッドウェー海戦で敗れ、空母や艦載機を多数失ったことで戦局が変わった。ガダルカナル島争奪戦で戦力を消耗して撤退し、44年7月にはサイパン島の守備隊が全滅。連合軍の攻勢の前に孤立した島々で守備隊の全滅が相次ぐなどして終戦に至った。厚生労働省によると、日中戦争(37年7月)以降の海外戦没者は約240万人に上る。

 戦場には多くの兵士の遺骨が残された。NPO法人「戦没者追悼と平和の会」(佐賀県みやき町)は、その帰還運動を行っている。

 塩川正隆理事長(70)の叔父はフィリピン・レイテ島で戦死した。歩兵第77連隊の中隊長だった叔父の死の詳細は不明で、祖父母は戦後長いこと「生きている」と信じていた。

 同連隊3千人のうち復員したのはわずか3人。その一人の永田勝美さん(故人)と慰霊祭で偶然会い、叔父の消息が分かった。「亡くなりました。私が埋めましたから」。そして戦後も多くの遺骨が帰国できずに現地に残されていることを知り、永田さんとともにフィリピンの遺骨収集に関わった。だが、戦病死した叔父の遺骨は、今も見つかっていない。亡くなった永田さんは「戦争は悪。しかし、(戦死者も)戦争被害者」という言葉を残した。

 現地に遺骨が野ざらしにされている戦死者もまた戦争被害者である、という視点は、塩川理事長の父への思いにもつながっている。沖縄で戦死した父の遺骨の手がかりを求め、77年、沖縄の遺骨収集に加わった。防空壕(ごう)で見たのは、戦後30年間も放置されていた白骨化した遺体。衝撃を受けた。「うそやろ。これじゃ父は浮かばれない」

 海外戦没者の遺骨収集数は127万1千柱(7月末現在)で、いまだに112万9千柱が未収集だ。その膨大な数字の背景には、飢餓や病死、捕虜収容所での衰弱死などさまざまな死があり、それぞれが父であり夫であり、息子や兄、弟であった。

 戦後70年を前に、風化しつつある戦場の現実について、その場に身を置き、今も忘れられずにいる人たちの証言などをつないで考えてみたい。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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