【太平洋戦線の証言】敵は飢餓 人が鬼に 極限の密林「日本兵も信じられん」

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

陸軍通信兵 尾崎 健一さん(86)の証言

 〈山中で出会った日本兵が、乾燥肉を差し出した。ぼろ布のようになった軍服がジャングルでの長い日々を物語る。「調味料を持っていたら交換してくれないか」。牛も豚もいないフィリピン・ルソン島の深い森の中〉

 あれは間違いないと思いました。人肉だったと。塩すら持ってないでしょう。調味料がないとね、“エサ”を食べても味がしないの。これは本当に、本当にきついですよ。とにかく味がほしかった。

 〈終戦まで過ごした約9カ月のジャングル生活。敵兵に銃を撃ったことは一度もない。戦う相手は飢餓だった。主食は雑草。ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタ、沢ガニ…。食べられる物は何でも口に入れた。食事はエサと呼んだ〉

 エサを調達する体力と才覚がない者はもう死ぬしかない。それが、私の戦場でした。

 〈東京陸軍少年通信兵学校を卒業し1944年10月、門司港(北九州市)を出港した。数日後、長崎県・五島沖で米軍潜水艦の攻撃を受け、同期が分乗した輸送船3隻のうち2隻が沈没。自分の船だけが免れてフィリピンにたどり着いた〉

 マニラの通信隊に配属されて1カ月もしないうちに米軍の猛攻で山岳地帯に逃げました。食料の補給は途絶え、部隊は散り散りに。軍としての機能はその時点でなくなりました。

 〈兵学校で習った通信技術を使う機会はなく、もはや階級も意味を持たない。山中で将校に会っても敬礼すらしない。その日の食料探ししか頭になかった〉

 エサがないところにいれば餓死する。歩けない者は容赦なく置き去りです。

 〈米軍の攻撃も激しかった。山中にバラック小屋を建てて兵士約30人が共同生活していた時、深夜に迫撃砲の集中砲火を浴びた。間一髪で逃げたが、生存者は40歳すぎの兵士と自分の2人だけだった〉

 その人は足に被弾して歩けませんでした。半日ほど雑談をした後に「さよなら」と言って、その場を離れました。そこにいたらエサがないわけですから。今も忘れません。私は自分の意思であの人を見殺しにしたのです。

 〈日本兵の遺体も70~80体は見た〉

 射殺された遺体を初めて見たときは、あまりに生々しい傷痕に体の震えが止まらず、怖くて気が狂いそうでした。戦争を振り返って、まず思うのはあの恐怖です。

 〈現地人の農地へ食料を奪いに行くこともよくあった。対日感情は最悪で、見つかるとゲリラに攻撃された。移動するときは銃に弾を装填(そうてん)し、安全装置を解除して常に警戒した。米軍とゲリラに加え、実は山中で出会う日本兵も油断できない相手だった〉

 食料を持っていると分かれば殺して奪う者もいました。山でのエサ探しは単独行動なので、味方を殺しても分からない。実際、それをやった戦友もいた。人間は飢えると鬼になるのです。

 〈時折、太ももや頬がえぐられている遺体があった。それは誰かが食べたことを示していた〉

 〈食料不足に加えてマラリアや赤痢にも苦しめられた。山で偶然出会った福岡出身の同期生ら2人が何度も助けてくれたが、体は骨と皮だけにやせ細った〉

 戦況は分からないし、どうでもよかった。何の希望もなかった。郷愁を覚える余裕すらなかった。

 〈終戦を知ったのは、米軍機からまかれたビラだった。「だまされているのでは」と疑い1カ月ほどは山に潜んだ。だが、山中での生活は限界で、「殺されてもいい」と山を下りた〉

 日付の感覚などまったくなかった。収容所で聞いて9月末だと知った。

 〈捕虜としての重労働に耐え、46年に帰国。フィリピンに送られた同期生300人のうち、生き残ったのは20人ほどだけだった〉

 〈戦後、兵学校の戦友会は、戦場に派遣されなかった同期生が中心。笑い話ばかりの酒宴に腹が立ったこともある〉

 「戦死した仲間のことを考えてやれ」と泣いたこともありました。

 〈フィリピンにたどり着くことなく散った仲間の慰霊碑は、犠牲になった海を望む長崎県平戸市の丘に立つ。遺族らの要望で建てられ、地元住民らが慰霊を続けている。一方のフィリピンには、南方戦線で最も多い約37万柱の遺骨が残る〉

 今も彼らの屍(しかばね)は雨ざらしのまま放置されている。そう思うと心が痛むんです。今でも、思い出すと夜は眠れない。私の心の中で戦争は終わっていないのです。

 (京都市西京区)

<フィリピン戦線>
 太平洋戦争開戦と同時に日本が攻撃を始め、1942年5月、全土を占領。米軍は44年秋から奪回作戦を開始した。レイテ沖やレイテ島の戦闘で日本軍は多くの空母や航空機を喪失。ルソン島などでは食料の補給が途絶え、兵士は山中での潜伏生活を強いられた。終戦後は分散した部隊への停戦命令が行き届かず、全軍が降伏するのに半年を要した。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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