【太平洋戦線の証言】逃避行…力尽きた母

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

軍属 橋本 常久さん(84)の証言

 フィリピン・ミンダナオ島の民間人収容所で暮らす私たち一家に帰国命令が出た。戦争が終わって2カ月後の1945年10月下旬だった。

 その年の3月、ミンダナオ島に米軍が上陸してきた。戦闘が始まる前から家族は山中に避難。だが、ジャングルの逃避行で母は体を壊した。戦争が終わり、家財道具を担いだ父と一緒に、つえをつきながら収容所にたどり着いた母は、寝たきりになり、次第に表情を失っていった。

 「母が良くなるまでここにいたい」と頼んだが、「この機を逃したら、いつ帰れるか分からない」と説得され、衰弱したほかの家族のために帰国を決めた。

 枕元で呼びかけると、もうろうとしていた母は目を開き言った。「気い付けて(気を付けて)帰れよ」。悲しみで胸がいっぱいになった。それが母の最後の言葉になった。

 〈戦争前、父は一家でフィリピンに移住し農園を経営。自らは現地で生まれ育ち、下宿しながら旧制小学校に通った。44年4月の卒業の日、校庭に並ばされて軍属になるよう指示された。14歳だった〉

 しばらくは、お茶くみや倉庫番をしていたが、米軍が迫ると、家族に再会できないまま部隊と一緒にジャングルに逃れた。友人がマラリアにかかり、みるみるやせ細る。行軍する体力は到底残っていない。「このままでは、死んでしまう」と隊長に掛け合い、子ども3人だけで川をいかだで下った。その病気の友人もある日、命の次に大事な塩を盗んで逃げ、裏切られた。誰もが自分が生き延びるだけで精いっぱいだった。

 〈帰国して帰郷。終戦から9年目の春に妻シゲ子さん(81)と結婚した。兵舎の跡地を払い下げてもらって開墾。必死に働いた〉

 妻の父は硫黄島に派遣されて45年3月に玉砕、帰らなかった。長女だった妻は、働き手がない家族のために小学校をやめて畑仕事をした。通学する同級生に見られるのがみじめで隠れたそうだ。普通に暮らす人々を巻き込んでしまう戦争なんて、するもんじゃない。

  (福岡県大刀洗町)

<フィリピン戦線>
 太平洋戦争開戦と同時に日本が攻撃を始め、1942年5月、全土を占領。米軍は44年秋から奪回作戦を開始した。レイテ沖やレイテ島の戦闘で日本軍は多くの空母や航空機を喪失。ルソン島などでは食料の補給が途絶え、兵士は山中での潜伏生活を強いられた。終戦後は分散した部隊への停戦命令が行き届かず、全軍が降伏するのに半年を要した。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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