【太平洋戦線の証言】味方の弾で死ぬ現実

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

陸軍文官 井上 晋介さん(91)の証言

 前方にフィリピンの島影が見えだした。貨物船の狭い船倉に詰め込まれて10日ほど。潜水艦攻撃を予想して緊張し続けてきた船内にホッとした空気が漂いだしたとき、警報が鳴った。

 あわてて縄ばしごで甲板に上がると、左舷側の輸送船が傾いていた。魚雷が当たったのは感じなかったが、多くの兵士が海に飛び込んでいた。水兵服が海に散った白い花びらのようだった。すると護衛していた船から機雷が投下され、数十メートルの水柱が上がった。離れた私たちの船にも、地震のような震動が伝わる。救助を待っていた多くの水兵も爆発に巻き込まれたようだった。入港目前で、戦わずして命を落とす無念さを思わずにはいられなかった。

 〈逓信省(現在の日本郵政など)の電報業務をしていたが、不足していた通信要員補充のために全国から職員50人が陸軍文官として集められた。訓練後の1944年5月1日、大阪港を出港した〉

 海上の兵士を救助する船もなく、速度を増して現場を逃れた。海面に米潜水艦の潜望鏡が出ているのが見え、防空用の高射砲が海に向けて発射された。なんと弾が海面で跳ね返り、僚船の監視兵を直撃。彼は空中に高くはね上げられ、海に沈んだ。敵を攻撃するためには味方の犠牲もやむを得ないというのか。厳しい現実を思い知らされた。

 〈フィリピン到着後の8月、部隊はインドネシアのアンボン島に移動。敵を最前線で阻止する守備隊だった。だが、連合軍は島を飛び越して進撃し、隊は取り残された形になった〉

 死を覚悟したが、安全とみられていたフィリピンに残った戦友の方が戦死した。生と死とは紙一重、味方の弾で死ぬのも戦争の現実だった。

  (福岡市南区)

<フィリピン戦線>
 太平洋戦争開戦と同時に日本が攻撃を始め、1942年5月、全土を占領。米軍は44年秋から奪回作戦を開始した。レイテ沖やレイテ島の戦闘で日本軍は多くの空母や航空機を喪失。ルソン島などでは食料の補給が途絶え、兵士は山中での潜伏生活を強いられた。終戦後は分散した部隊への停戦命令が行き届かず、全軍が降伏するのに半年を要した。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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