【太平洋戦線の証言】動けぬ戦友 自爆

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

海軍防空隊主計兵長 田中 末男さん(90)の証言

 ジャングルで砲撃を受け、倒れた戦友の大腿(だいたい)部が大きく削れていた。止血をして地図と米袋をそばに置き、「良くなって追ってこいよ」と代わる代わる声を掛けた。痛みも訴えず、ただうなずいていたが、出発後間もなく、手りゅう弾の音が響いた。「自爆した」。振り返った私たちは、無言のまま黙々と歩き続けた。

 自分が生きるのに精いっぱい。傷つき、マラリアなど病に伏した重傷病者は、当分の食料と弾薬を残して置いていくしかなかった。

 〈フィリピン・ルソン島の海軍航空基地の防空隊で主計兵長として経理を担当したが、戦況悪化で、マニラ湾の入り口にある島の守備に就いた。1945年2月、米艦隊の猛攻撃が始まり、応戦していた陣地の砲も壊れた。深夜、対岸に逃れ、ジャングルの中を行軍した〉

 あるとき、川の岸辺に白い物を見つけた。2人分の戦友の頭蓋骨だった。悲しさ、むなしさがこみあげ、語り掛けながら木の根元に埋めた。埋葬されず帰国できない戦友が今もいる。

 〈5月ごろ、島南部の山に着いた。少人数のグループに分かれて自給生活に入る。食料は、周りの民家に探しに行った〉

 家探し中、ゲリラの拠点に遭遇したことがある。銃撃戦になって家に乗り込むと、暗がりから幼児が飛び出してきた。恐怖で声も出ないその子を本能的に抱えて外に逃がし、銃弾の中を命からがら逃げた。銃を人に向けて撃ったのは、実はそのときが初めてだった。

 ゲリラも戦争がなければ普通の農民だったはずだ。自衛のために銃を手にしたのだろう。殺さなければ殺される、人間が人間でなくなっていた。

 〈9月17日、砲撃がやみ、投降を呼びかけてきた。幹部が降伏を決めた〉

 死を覚悟していただけに自爆するかどうか迷った。隊長の「生き残りには、荒廃した祖国を再建する使命がある」という言葉で思いとどまった。勝った国も負けた国も、多くの命と財産が失われた。「戦争を繰り返してはならない」。あの山野に眠る戦友の叫び声が聞こえてくるようだ。

  (福岡県太宰府市)

<フィリピン戦線>
 太平洋戦争開戦と同時に日本が攻撃を始め、1942年5月、全土を占領。米軍は44年秋から奪回作戦を開始した。レイテ沖やレイテ島の戦闘で日本軍は多くの空母や航空機を喪失。ルソン島などでは食料の補給が途絶え、兵士は山中での潜伏生活を強いられた。終戦後は分散した部隊への停戦命令が行き届かず、全軍が降伏するのに半年を要した。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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