【太平洋戦線の証言】仲間の機転で生きる

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

陸軍野砲隊伍長 太田 毅さん(92)の証言

 7月22日 ヒルがまとわりつく密林。雨でびしょぬれの夜間行軍に疲れ、仮眠をとった直後だった。夜明けを待ち構えたように三方から一斉射撃。丘に残した75ミリ山砲にカチーンカチーンと銃弾が当たる。山砲はもう残り少ない。小隊長の「行くぞ」の声に、岩陰から飛び出した。5人で山砲を退避させようとするが、焦るほど動かない。左脚に鉄棒で殴られたような衝撃。あれっ、という感覚だった。脚の付け根を弾が貫通していた。

 〈第56師団(龍兵団)の野砲隊として従軍。新米伍長として、組み立て式山砲射撃の戦況観測を担当していた。重傷を負ったのはミャンマー南部のドウラク盆地。1945年の終戦目前だった〉

 22日 斜面を転げ落ちた。テニスボール大の肉がもげ、出血がひどい。近くの伍長が駆け寄り、私のズボンを裂き、止血してくれた。敵味方の中間点に取り残された。とうとう部隊の厄介者になってしまった。古里・大牟田(福岡県)や両親の顔が浮かんだ。

 23日 傷の痛みが増す。敵が肉薄している様子も分かる。舌をかんでみた。死ぬことは難しいものだ。攻撃がやむまで、死体を装い、横たわった。

 24日 撤退が始まった。私は動けない。「手投げ弾を1発置いていってください」と言った時、顔も知らない兵長2人が「私たちが運びましょう」。木の枝を2本折り、山砲を運ぶ馬用の毛布で担架を作り、運んでくれた。自分だったらどう行動したか。

 25日 夜間、急斜面の撤退。村に朝たどり着く。鈴なりのドリアン。指を突っ込み、むさぼり食った。血のりで真っ黒だった指が真っ白になった。

 26日 連隊本部に帰隊。倒れるようにみんな眠った。やがてマラリアの発作が広がった。私の傷には大きなウジが何匹も食い込み、痛かった。帰隊して、作戦中止命令が出ていたことを知った。

 〈タイ中部のナコーンナーヨックに捕虜として収容され、翌年6月に復員。傷の治療に通った病院の看護師だった妻・タヱ子さん(9年前に他界)と結婚。福岡県警警察官となり、前原、甘木署長などを歴任した〉

 戦場では、首をかしげる命令があった。中隊長は、鉄の砲身上に磁石を載せ、方角を調べた。誤りを指摘すると、真っ赤になって怒った。連隊長は、6千メートル先の敵陣を双眼鏡で眺め、「距離3千」と山砲を発射。18発しかない砲弾の半数以上が手前に落ちた。

 隊長が戦死すれば、急ごしらえの隊長が生まれた。実戦経験もなく、短期教育で戦地に送り込まれた将校も少なくなかった。優秀な将校もいたが、虚勢を張り、部下の進言を受け入れず、犠牲を拡大した。リーダーとは何か。組織とは何か。過酷な戦場は私に、苦い教訓も与えてくれた。

  (福岡市城南区)

<ビルマ戦線>
 ビルマ(現ミャンマー)を通り、中国へと続く連合軍の物資補給路を遮断するために、日本軍は1942年1月、ビルマに侵攻。同年5月末に全土を制圧した。しかし、43年から連合軍の反撃が始まり戦いは激化。事態打開のためにインドの連合軍拠点を目指した「インパール作戦」も失敗に終わった。九州出身兵も6割以上が命を落としたとされる。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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