【太平洋戦線の証言】「母の愛」を思い続け

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

陸軍情報隊軍曹 中里 清久さん(92)の証言

 真冬なのに夏用の軍服が支給され、門司港(北九州市)に集合するよう命令があった。南方戦線に向かうことは分かった。もう日本の地は踏めないと思った。1週間の休暇で帰省すると、母は「むごか(残酷だ)。必ず帰っておいで」と、好物のもちを焼いてくれた。

 〈茨城県にあった航空通信学校を1943年2月に卒業すると、旧陸軍情報隊の軍曹として戦地へ。超短波のレーダーで敵機の飛来を監視していた。台湾、タイ、マレー半島などを経由し、スマトラ島に着いたのは同年5月ごろ。パレンバンの製油所を防衛するのが任務だった〉

 連合軍の艦船から艦砲射撃を受けた。防空壕(ごう)などなく、ゴム林に逃げ込むしかなかった。私たちが持っていたのは、三八式小銃だけ。仲間の負傷を目の当たりにするたび、憎しみと敵対心が膨らんだ。情報隊だったので、戦況の悪化は伝わってきた。

 母のみそ汁やおはぎを食べたい。戦闘の合間、ヤシの木陰で戦友たちと、そんな話をよくした。炊事班長も務めていて、倉庫に残っていた大根を種に畑をつくった。大豆を蒸して土に入れたら、納豆もできた。

 〈現地語で「塩」を意味するガラム島で捕虜生活。2日分の食料として、乾パン8枚、肉缶詰1個、あめ玉20個ほどが支給されるだけ。46年6月に復員〉

 私が10歳の時に父は他界し、母は5男2女を育てた。戦地には四男の私一人だけが赴いた。実家に戻ると、母は「がん(こんなに)やせて」。体重は15キロ減っていた。卵を割ったおかゆを食べさせてくれた。優しい味だった。

 15年ほど前、妻や娘たちと知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)に立ち寄った。涙が止まらなかった。特攻隊員たちの遺書や手紙から、同年代の母を思う気持ちが伝わってきた。

  (長崎県佐世保市)

<スマトラ戦線>
 旧オランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)のスマトラ島には、東南アジア有数の油田地帯・パレンバンがあった。日本軍は1942年2月、油田を損傷しないよう、落下傘降下部隊を投入、占領した。その後、米軍のフィリピン攻略に伴い、日本軍は石油の輸送ルートを失い、スマトラ島は戦争末期に孤立状態に追い込まれた。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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