【太平洋戦線】現代に通じる生身の日本兵 識者に聞く

 戦場での日本人を連合軍はどんな視点で見ていたのか。戦後70年を前にした今も、戦没者の遺骨が海外に多く残されている問題を、私たちはどう捉えればいいのか。兵士や遺族、また戦場となったアジアの人々は、あの戦争にどんな思いを抱いているのか。識者や関係者に聞いた。

埼玉大准教授 一ノ瀬俊也氏に聞く

 勇猛果敢、善戦敢闘、ファナティック(狂信的)な銃剣突撃をイメージする人もいる。旧日本兵の戦場での実像は定まらない。連合軍側は彼らをどう捉えていたのか。米陸軍軍事情報部が1942~46年、米隊員向けに毎月発行していた戦訓広報誌を調べた。実戦を経験した米兵の証言、捕虜になった日本兵の証言などから分析している。

 こんな記述が見られる。

 「彼らは十分に訓練と指揮を受け、向こう見ずに戦い続けた。だが、ひとたび計画が失敗すると混乱した」(アッツ島従軍の米兵)、「勝ち目がないと、明らかに死ぬのを嫌がり、総崩れになるとわめいた」(ニューギニア従軍の米兵)。

 43年5月、アリューシャン列島・アッツ島の日本軍守備隊約2500人が全滅した際、大本営発表で初めて「玉砕」という表現が使われた。最後まで潔く戦ったとして。だが、米兵たちの観察眼からは、戦場での日本兵一人一人の恐怖や混乱、生身の人間の絶望ぶりが伝わってくる。それこそが戦場なのだと思う。

 米軍内では、経済的に打撃を与えることで戦争の早期終結を図ろうと、木造家屋が多い日本の都市への焼夷弾攻撃が早い時期から唱えられていた。攻撃目標は大きくとらえると、製鉄所から飛行機のエンジン工場などへ、そして市民が暮らす都市へと変わっていった。

 米軍は日本軍について、こんな分析もしていた。

 「最大の弱点は、予期せぬ事態にうまく対処できないことだ。将校が撃たれるや、部隊はバラバラになった」「一度決めた方針に固執し、兵力を浪費。側面、背後からの包囲戦法や奇襲戦法一辺倒に陥りがち」「日本陸軍は機械に支えられた人間の軍隊であり、われわれは戦闘機械を用いる軍隊だ」

 米軍は当初、日本兵を「超人」と恐れた。その後、集団規律の高さを評価する一方、自発的な個人戦、想定外の事態への対応能力を弱点と見るようになる。米側の一方的な見方であり、同じ傾向は米軍にもあっただろうが、現代の悩める日本人像にも通じる。

 日本軍はなぜ、これほどまでに戦線を拡大したのか。資源も技術も乏しい日本が、米軍の反攻を遮断し、石油などの資源を確保するためには、やむを得ない戦略だったであろうが、米国相手の戦争を始めたこと自体がそもそも間違いである。攻防は飛行場(制空権)と補給線(物資支援ルート)の奪い合いで、日本にとってその激戦地は全滅の歴史となった。

 大国に追いつけ、追い越せ。明治時代以降、小国・日本が追い求めた富国強兵。国策の流れの中で、日本兵たちはそのつけを戦場で背負わされた形だ。日本軍は近代日本の縮図とも言え、もの悲しさを感じる。

 国のために死ぬ、疑うことは許されない-。同じ日本人であっても、今とあの時代、あまりに価値観が違っている。戦争の原点をたどると、官僚や軍人の無謀さより、むしろ生真面目さ、計画重視、点数(成果)主義を感じる。もっと、いいかげん(余裕、柔軟思考)、待つという姿勢があれば、この戦争はどこかで止められたかもしれない。

 もし自分が戦争に行ったらどうなるか。戦争に行くということは、どういうことなのか。それでも戦争に行くのか。行かないようにするためには、どう知恵を働かせたらいいのか。

 日米双方の従軍兵士たちの証言は、私たちにそんな問いを投げかける。 (談)

一ノ瀬俊也(いちのせ・としや)
 1971年、福岡県生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科中退。国立歴史民俗博物館助教を経て、埼玉大教養学部准教授。日本近現代史専攻。著書に「皇軍兵士の日常生活」「戦場に舞ったビラ」、近著に「日本軍と日本兵 米軍報告書は語る」(講談社現代新書)がある。

=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

 

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