【太平洋戦線】薄れる占領の記憶 関係者に聞く

 戦場での日本人を連合軍はどんな視点で見ていたのか。戦後70年を前にした今も、戦没者の遺骨が海外に多く残されている問題を、私たちはどう捉えればいいのか。兵士や遺族、また戦場となったアジアの人々は、あの戦争にどんな思いを抱いているのか。識者や関係者に聞いた。

マレーシア・ペナン島 ロー・チェンホーさんに聞く

 マレー半島の西側、インド洋に浮かぶマレーシアのペナン島。島最大の都市・ジョージタウンは、英国植民地時代の建物が多く残り、世界遺産に認定されている。世界中から観光客を集めているこの街を、かつて日本軍が占領していた。

 「始まり」の光景をロー・チェンホーさん(89)は鮮明に覚えている。

 「洗濯物を干していたら、9機の飛行機が見えました。眺めていると、家の中から父が『逃げろ』と叫びました。爆弾が落ちて周囲の家が燃え上がりました」

 1941年12月11、12両日、日本軍の飛行機はジョージタウンを爆撃する。市民483人が犠牲になった。英国軍や英国人は同月16日までに島から脱出。3日後、日本軍が上陸する。

 「女性はレイプされるといううわさが流れ、私はできるだけ外に出ないようにしました。外出するときは兄弟の服を着ました。髪も短く切りました。男に見えるようにしたのです」。ローさんは振り返った。

 日本軍のマレー侵攻は、“マレーの虎”こと山下奉文中将(当時)の快進撃として有名だが、その後の占領についてはあまり知られていない。現地の歴史研究者、クレメント・リアンさん(50)によると、マレー人やインド人など多くの民族が暮らすマレーシアで、日本軍は華人(中国系住民)を敵視した。中国国内の抗日運動を支援する者がいるという理由だった。

 華人のローさんは「憲兵が一番怖かった」。憲兵は時々、「抗日」を探すと称して、市民を道に並ばせ、尋問や拷問を行ったという。ペナンでは日本軍の残虐な行為により1600人以上が命を失ったとされる。

 終戦まで3年8カ月続いた占領。その体験を語る人は少ないという。リアンさんは「対日関係を重視する政府の政策から、学校では占領期のことをわずかしか教えない。庶民はその日のことで精いっぱいで、つらい体験は語りたがらない」と説明する。ここでも戦争の記憶は薄れている。


=2014/09/23付 西日本新聞朝刊=

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