引き揚げ、極限の生 作家・五木寛之さん「人間というものは、いつ何をするか分からない」

作家・五木寛之さん、体験を語る

 1945年8月15日に太平洋戦争が終わると、戦場や植民地支配下だった「外地」には、兵士と民間人合わせて700万人近くが取り残された。「開拓団」「銃後の民」などと称され、日本から移住した家族にとって、それは苦難の人生の始まりだった。混乱の中、中国大陸や朝鮮半島で引き裂かれた家族からは、残留孤児・婦人が相次いだ。日本に引き揚げた家族も、無一文からの生活再建はいばらの道だった。戦争の20世紀がもたらした空前の難民と民族大移動。朝鮮半島から引き揚げてきた作家の五木寛之さん(82)は、その証言者でもある。五木さんはその原体験や記憶を心の底に刻み、膨大な著作群を生み出していった。

 《ソ連兵に自動小銃をつきつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際(かべぎわ)に立たされた。彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で叫んだ。悲鳴のような声だった。ソ連兵の一人が、私をおしのけて裸の父親のペニスを銃口で突っついた。そして軽蔑(けいべつ)したようになにかを言い、仲間と大笑いした。

 それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。そのとき母が不意(ふい)に激しく吐血(とけつ)しなかったなら、状況はさらに良くないことになっていただろう。
 あのとき母の口からあふれでた血は、あれは一体(いったい)、なんだったのだろうか。病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛(か)み切った血だったのか。まっ赤(か)な血だった。》

-エッセー集「運命の足音」(2002年)

 〈五木さんは朝鮮の旧平壌第一中学校1年生の時、終戦を迎えた。12歳だった。両親とも教員で、師範学校の舎宅で暮らしていた。ソ連軍が侵攻してきた時、父は入浴中。母は体調を崩し、寝込んでいた。母はこの後、何も語らず、食事も拒み、その年の9月20日、41歳で亡くなった〉

 あの日がいつだったか、史料とも突き合わせてみるが、はっきりしない。大声で何か叫んだ記憶がある。母さんだったか。お父さんと叫んだ気もする。幼い弟と妹がどこにいたのかも記憶がない。フラッシュ撮影のように一瞬、鮮明になったり、消えたりする。

 長い間、忘れよう忘れよう、記憶から消そうと、努めてきたことです。自分をえぐって書いたものですからね。あれがもう、最初で最後です。


 〈父と弟妹の一家4人はしばらく、平壌の一角で収容生活を強いられた〉

 満州から引き揚げてきた人たちも加わり、平壌は難民であふれかえった。氷点下何十度の寒さが厳しくなっていくに連れ、感染症も広がり、母国を見ずにたくさんの人が亡くなった。優しい人から先に死んでいった。

 ある日、腹をすかせた私たちを見かね、オモニがふかし芋を鉄条網越しに差し入れてくれようとした。手を伸ばそうとすると、横からドンと突き飛ばされ、大人に奪われた。「飢えた大人ほど怖いものはない」と、骨身に染みて思った。

 〈朝鮮南北を隔てる北緯38度線を越えるため、一家はソ連兵を買収した闇トラックで集団脱出を試み、3度目に成功する〉

 夜を待ち、息を潜めての脱出。父はぐずる妹を一時、「もう、これは預けていく方がいいだろう」と、置いて行かざるを得なかった。だが、私たちはルート変更で、また舞い戻った。「これも運命」と、家族がそろった。

 (38度線は)走って渡れる浅い川だった。バシャバシャバシャ。妹を背負い、弟の手を引いて走りに走った。弟が力尽きて倒れれば、迷わず置いて走り続けるつもりだった。懐には母の遺髪があった。

 〈1947年9月、仁川から博多港に引き揚げ。博多港ではしばらく沖合停泊が続いた。灯(あか)りがともる遠くから「リンゴの歌」が聞こえてきた〉

 人間が地獄に生きるためには、何が必要か、食物にあらず、水にあらず、希望の一字に尽きる。悲惨な極限でも、信じられないことだが、親切も、助け合いも、時に笑い、幸福、自由、感動もあった。

 アウシュビッツ収容所で暮らした子どもの手記には「もう自分は人間ではなくなった」というような記述がある。私にとっても、それはもう、変わったなんて言葉では表現できない体験です。


 〈一家は福岡県八女地区で暮らす。父は結核を患い、酒に溺れた。五木少年は中学、高校時代、家計を支えるため泊まりがけで、炭鉱景気に沸く筑豊へ、自転車で茶の行商の旅に出掛けた。その時の経験が、長編小説「青春の門」へとつながっていく〉

 内地に引き揚げてきた私は、そこでも異邦人だった。筑豊には私たちと同じように、各地から流れてきた人たちが暮らしていた。地獄だと思っていたら、全然違って楽天的で気さくで。お茶をいっぱい買ってくれた。ありがたかったですね。

 〈住み込みの新聞配達、売血をしながらも、学費が工面できず、入学した早大を4年時に抹籍(その後中退)。作詞家、ルポライターなどを経て67年、「蒼(あお)ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。そのころのエッセーには「デラシネ」という言葉がよくつづられた〉

 デラシネとは、根を持って土地に定着している人間が、国家や政治とかさまざまな力でその土地から無理やり、根こぎ(むしり取られる)にされた状態です。(植民地支配の)加害者から被害者へと、自分の意志に反して巻き込まれた人間が、加害者に逆戻りすることなく、新たな次元で自己を回復するためには、どう生きるべきか、学生時代から考えていた。


 〈30代後半、五木さんは「引き揚げ資料センター」を設立しようと、引き揚げ者が多い長野県などで証言取材に奔走した〉

 デンスケ(旧式録音機)を背負って、証言を聞いて回ったが、本当に悲惨な体験を語ってくれる人は少なかった。「えー、まあいろんなことがありました。でも今はもう、こうして何とか暮らしていますから」と、口を閉ざす。当然ですよね。それはそのまま、そっとしておくしかない。

 雄弁に語ってくれる人はいました。ただ、それは他人と自身の体験を混同していたり、起承転結が出来過ぎていたり、手あかが付き過ぎていたり。

 「語らざれば、憂い無きに似たり」(分かってもらえないなら、じっとこらえるしかない)と言うでしょ。本当のことなんか、伝わる訳がない。歴史の真実は知る人ぞ知るのみです。その背景には暗黒が広がっている。


 〈50歳を前にした81年から3年ほど休筆。京都府の龍谷大学で聴講生として仏教史を学び、小説「親鸞」などを生む〉

 なぜ? その理由を話すと、2時間ぐらいかかってしまうんですよ。多縁が生んだ一つの偶然でした。

 引き揚げることができなかった多くの人たちの犠牲。その上に、自分が生きて帰れたという後ろめたさ。それは今でも残っている。自分は悪人なのだ。その思いを背負っていくしかない。そんな思いがどこにあったのかもしれません。

 〈親鸞が到達した「諦める」は、消極的、後ろ向きではなく「明らかに究める」(勇気を持って現実を直視する)。「自力では悟れぬものと悟りたり」。厳しい修行をいくら積んでも、人は自力では煩悩や欲望を捨てられない。「他力(たりき)」という新思想の提唱だった〉

 親鸞たちが説いた浄土真宗の布教地域を調べると、子だくさんの貧しい農村が多い。開拓団、引き揚げ者の多い土地だった。生きていくことが困難な次男、三男が戦前、日本列島からこぼれ落ちるように、外地へと押し出された。そして、結果として植民地の支配者となり、敗戦でまた追われる。私たち家族もそうだ。

 引き揚げの歴史と言えば、苦難の逃避行ばかりにスポットが当たる。しかし、それ以前に、なぜ多くの人たちが外地に行かざるを得なかったか、その歴史や背景にこそ、私たちはもっと学ぶべきだと思う。


 〈富国強兵、戦後復興、高度経済成長…。日本人は明治、大正、昭和と「坂の上の雲」を目指し、上っていった。五木さんは平成の時代に入り、「下山の思想」を提起する。新たな山頂に上る前のプロセスとして、「上り」ではなく「下り」の生き方こそ、今この時代に求められているのではないかと〉

 戦後70年と言うが、新たな「戦前」なのかもしれない。困難な戦後をどう生きたか、これからどう生きるのか、戦後こそが大事なんですよ。人は歴史に学ばない。だからこそ、その断念の上に立ち、それでもその歴史について一生懸命語るのだ。植民者として背負った罪の十分の一ぐらいは、自分は償ってきた、という自負はあります。

 〈戦後70年、日本人はどこに向かって歩もうとしているのか。東日本大震災(2011年)という未曽有の試練と、その後の針路。この国は混迷と憂いの一歩を踏み出そうとしているのかもしれない。親鸞が生きていれば、彼は今、私たちにどんな教えを説くだろう〉

 「人間というものは、いつ何をするか分からない存在だ」。親鸞はそう説くだろう。人は善意の塊でもなく、大きな悪を抱えた存在でもある。線路に飛び込んで人を救うこともあれば、線路に人を突き落とすことだってある。人はその時、その時の状況で不安定に変わっていく。だから、時代状況が変わるとき、いつ加担者になるか分からない。それを常に抱きつつ、生きていかねばならないと、自省する。


=2014/12/04付 西日本新聞朝刊=

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