【引き揚げの苦難】みそ汁、島影 涙の船上

 戦争は終わったのに、平和は訪れなかった。戦時中、日本はアジア・太平洋地域に支配地を拡大。それとともに多くの日本人が海外で生活した。1945年の終戦時、その数は軍人、民間人合わせて700万人近く。終戦直前にソ連軍が侵攻した旧満州(中国東北部)や樺太(現サハリン)では、戦闘の犠牲になったり、逃避行の中、感染症や飢餓に見舞われたりして、多くの命が奪われた。国や地域によって状況は異なるが、それぞれに引き揚げの苦難があった。命懸けで祖国に戻った人々。その証言からは、戦争が引き起こす悲劇の実像が伝わってくる。

滝沢 昭正さん(84)の証言

 建物の陰にいた群衆が急に迫ってきた。「日本人か!」。両手を押さえられて丘の上に連れて行かれた。老人から子どもまで100人はいて、刀や包丁を手にワーワーと騒ぎ立てていた。一人の老人が長いてんびん棒を振り回し、背中に強い衝撃を感じた瞬間、崖から転げ落ちた。

 〈寮生活をしていた旧満州・公主嶺(こうしゅれい)の農学校は終戦で解散になった。200キロ離れた奉天(現瀋陽(しんよう))の実家に帰る列車を途中で降ろされ、仲間4人と歩いた〉

 日中はコーリャン畑に身を隠し、生のジャガイモやニラをかじって飢えをしのいだ。10日間ほど歩き奉天の外れに到着。「もう帰ったも同然だな」と一安心したところだった。

 気を失っていたが、体が冷たいものに触れて我に返った。線路の上だった。見上げると、群衆が下りてこようとしていた。無我夢中で街の方へと走ると、前方から人影が現れた。「もうダメだ…」。そう思ったら、「誰だ貴様ー」ってね。日本兵だった。

 「ああ助かった」と思うと同時に、残した仲間のことが心配になった。日本兵に救出するよう頼んだが無理だった。なぜあそこまでするのかと思った。現地の人をいじめた覚えはない。むしろ気を使って生活していたと思うんだがな。

 〈何とか実家に帰り着くと父がいた〉

 「足は付いてるか」って驚いてね。父は仕事を失い、暴徒の襲撃やロシア兵におびえて過ごしていた。近所で日本人女性がロシア兵に襲われるのも見た。

 〈1946年8月に引き揚げが決まり、満員の無蓋車に乗った〉

 夜中に列車が止まっていた時のことだった。赤ん坊が泣きだし、誰かが「うるさーい」と叫んだ。みな錯乱状態。なだめる人もいない。しばらくすると今度は母親の泣き声が聞こえた。赤ん坊を現地の人に預けてきたんでしょう。今もすすり泣きが耳に残っている。

 ようやく乗船できた船内でみそ汁が出た。みんな感激したね。「うわーっ、しょっぱい。だけどみそ汁だ」ってね。対馬の島影が見えた時の様子も忘れられない。大声を上げ、泣き伏す人や、正座して手を合わせる人がいた。

 振り返ると、間違った判断が戦争につながり、同級生の哀れな最期を招いたと思う。最近、中国や韓国の反日意識の高まりを肌で感じる。これからどうなるのだろうかと不安だ。 

(福岡県太宰府市)

旧満州
 1931年に始まった満州事変によって日本が占領した中国東北部をいう。日本は32年、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政としたかいらい国家の満州国を建設。溥儀は帝政移行後に皇帝となった。日本政府は全国の貧しい農村から移住者を募り、「満蒙(まんもう)開拓団」として27万人の開拓移民を送り込んだ。45年8月9日にソ連軍が侵攻した際には、多くの民間人が犠牲になった。さらに日本兵や民間人がシベリアなどに抑留されたほか、親とはぐれるなどして現地に取り残された子どもたちが残留孤児となるなど、戦後に多くの問題を残した。

=2014/12/04付 西日本新聞朝刊=

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