【開戦の日から】生徒の士気 高め合う教師

重岡富男さん 拡大

重岡富男さん

 1941年12月8日午前1時半、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し、シンガポールを目指して進軍を始めた。約2時間後、日本軍の航空母艦を離陸した多数の艦載機が米国・ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まった。緒戦の勝利に国内は沸き上がったが、その後の暮らしは戦争一色に染められ、戦いは3年8カ月に及んだ。戦争に翻弄(ほんろう)され、敗戦後を生き抜いた人々に開戦の日以降の証言を聞いた。

重岡 富男さん(94)の証言

 全校生を集めた朝礼で教頭先生が戦果を報告し、全員で万歳した。職員室では先生同士が「良かった」と言い合い、校内中、戦争の話で持ちきりだった。

 〈開戦時は、今の福岡県朝倉市にあった旧制中学の教員。徴兵で教員が不足し、1年前に教職に就いていた〉

 中国との戦争が始まったころから、戦争するのも勝つのも当たり前という世の中。新聞を熟読し、朝礼で生徒にどう話すか教師同士で話し合った。「あの言い方は面白かった」「あなたの話は長すぎる」なんて。「戦場で兵隊さんが頑張っているから君たちも頑張れ」など、子どもたちの士気を高めようとした。今考えるとばかな話だ。

 〈1942年8月、自身も召集された。22歳だった〉

 召集令状が来たのは夏休み。緊急に集められた生徒が学校の前の道まで埋めて、見送ってくれた。訓練を受けた台湾の基地には「敵をやっつけて勝利し、無事に帰ってください」などと書いた生徒の手紙や衣類などが詰まった慰問袋が4~5回も届いた。

 だが、実際に兵隊に行って「何のために戦争するのか」と疑問が湧いた。訓練とは名ばかりの暴力。毎夜、引っ張り出されて棒でたたかれ、踏みつけられた。私たちは補充兵。大学教授や管理職など年配者が多かった。「上官」は、志願して早く出世した二十歳そこそこの若者。その「上官」に理由なく殴られ、反論は許されなかった。

 〈43年2月、部隊は中国・広東省に侵攻。山岳地帯を転戦した〉

 山砲部隊に所属。将校は馬に乗るが、われわれは泥まみれで歩いた。崖下に落ちて死んだ仲間もいる。激戦が続くと食料が尽き、集落のニワトリやブタを奪った。抵抗する住民は殺され、進軍時には民家を焼き払う。こちらも殺されるが住民も犠牲にした。戦争は人殺しだと分かった。

 〈敗戦後、捕虜収容所を経て46年初夏に引き揚げた〉

 神奈川県・浦賀から列車で帰郷する途中、広島の焼け野原を通った。「俺たちの戦争では見たこともない」と驚き、多くの市民が犠牲になったことを思った。

 〈復職後は県職員、町会議員と転職しながら、ずっと平和運動に携わった〉

 戦後、教え子の同窓会でかわいがっていた生徒が志願して戦死したと聞いた。「残念だっただろう。平和を守る」と手を合わせた。平和運動は死ぬまで続けていく。

(福岡県うきは市)

=2014/12/08付 西日本新聞朝刊=

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