【開戦の日から】はだしで戦勝祈願に

 1941年12月8日午前1時半、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し、シンガポールを目指して進軍を始めた。約2時間後、日本軍の航空母艦を離陸した多数の艦載機が米国・ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まった。緒戦の勝利に国内は沸き上がったが、その後の暮らしは戦争一色に染められ、戦いは3年8カ月に及んだ。戦争に翻弄(ほんろう)され、敗戦後を生き抜いた人々に開戦の日以降の証言を聞いた。

中村 文子さん(83)の証言

 霜が降りた寒い朝、全校生でそろって神社に戦勝祈願に行きました。はだしで「冷たいね」ってぴょんぴょん跳びながら歩いて。素足が真っ赤になりました。

 開戦時は旧国民学校の高学年で10歳。現在の福岡県須恵町にあった旧日本海軍燃料廠(しょう)の炭鉱で父が働いていました。1棟に10世帯が入った長屋の炭鉱住宅で暮らし、みんな家族みたい。錠をかけたこともありません。

 炭住では号外が配られ、ちょうちん行列もありました。私には「必ず日本が勝つんやろう」という気持ちしかありませんでした。

 家の近くに、炭鉱の神様が祭られた神社があり、その丘は桜の名所でした。平和なころは夜中まで花見でにぎやかでしたね。軍の炭鉱で憲兵がいたので、「枝を折るな」と厳しかったですが…。その下の広場で、たくさんの出征兵士を見送ったものです。でも、帰ってこない人が多かった。近所に男の4人兄弟が兵隊に行った家がありましたが、戦後になってみんな戦死の知らせが届いたそうです。かわいそうでした。

 長兄も二十歳で出征し、フィリピンに向かう洋上で1944年7月、戦死しました。入隊前に自宅に帰ってきた時、見たこともないようなきれいな木目込み羽子板を買ってきて夜中に枕元に置いてくれていました。そんな優しい兄が戦死したのは悲しかった。遺骨箱には位牌(いはい)しか入っていなくて、コトコトと寂しい音がしていました。

 戦争が終わった年、女学校に入学。通学路にはパン店ができてイーストの香りに誘われました。家からこっそり持ち出した米と交換。あのおいしさは忘れられません。戦争が終わり世の中、良くなったと思いました。負けてよかったのでしょう。あのまま軍の勢いで進んでいたら、今どうなっているか分かりませんから。

(福岡県宇美町)


=2014/12/08付 西日本新聞朝刊=

PR

連載 アクセスランキング

PR

注目のテーマ