【開戦の日から】のんきに爆撃後見学

 1941年12月8日午前1時半、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し、シンガポールを目指して進軍を始めた。約2時間後、日本軍の航空母艦を離陸した多数の艦載機が米国・ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まった。緒戦の勝利に国内は沸き上がったが、その後の暮らしは戦争一色に染められ、戦いは3年8カ月に及んだ。戦争に翻弄(ほんろう)され、敗戦後を生き抜いた人々に開戦の日以降の証言を聞いた。

山口 ノブさん(89)の証言

 開戦当時は16歳。師範学校の2年生でした。12月8日に何があったのか、あまり覚えてないんですよ。米国と戦争になったからといって特別な気持ちはなかったですね。日本が勝つんだとは思っていたけど、戦果を聞いて喜ぶわけでもなく。勉強も忙しくて、深刻に考えてなかったんでしょうね。

 師範学校では、英語の授業は日本語を一切使わない厳しい内容だったんですけど、授業がだんだん減っていった記憶があります。敵国語と言われて。開戦当初はそれほど生活に変化はなかったですよ。1年か2年後くらいからかな。制服はスカートからもんぺになって。寄宿舎のご飯にアワが交じるようになって。時々、戦地からの遺骨が汽車で駅に届くので、朝の5時にみんなで出迎えをさせられたりもしました。

 そのころは、戦争が怖いという思いはなかったですね。近所に爆弾が落ちても見物に行ったりして、のんきなものでした。

 戦争が地獄だと分かったのは、原爆です。農作業中に長崎の空が光って夕方みたいに暗くなった。その年には教員になっていたので、すぐ呼び出されたんです。汽車で運ばれてきた負傷者が学校の教室中に並べられて、私らが手当をすることになったんですが、それはもうひどかった。薬もなくて、傷口のうじ虫を取ってあげるくらい。血のにおいがすごくて、ご飯がのどを通らなかったですよ。

 終戦は学校の校庭で聞きました。ああ、助かったって心から思いましたよ。目の前では次々に人が死んでいくんですけど、これで助かったって。

 振り返れば、戦争がいつ終わるかとか、戦争が良いとか悪いとか考えることもなかった。先のことを考えたら生きていけなかった。目の前のことだけ見ていました。

 (長崎県諫早市)


=2014/12/08付 西日本新聞朝刊=

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