【開戦の日から】やった、やったと万歳

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川津健治さん

 1941年12月8日午前1時半、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し、シンガポールを目指して進軍を始めた。約2時間後、日本軍の航空母艦を離陸した多数の艦載機が米国・ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まった。緒戦の勝利に国内は沸き上がったが、その後の暮らしは戦争一色に染められ、戦いは3年8カ月に及んだ。戦争に翻弄(ほんろう)され、敗戦後を生き抜いた人々に開戦の日以降の証言を聞いた。

川津 健治さん(93)の証言

 二十歳だった私は、その日も山仕事をしていた。山奥の民家に泊まり込み、日没まで杉を切り出す。炭鉱や軍工場の需要もあり、忙しかった。作業を終えて夕方戻ると、ラジオがワーワー言っていた。いやー戦争が始まった。やった、やったと、仲間と万歳した。

 旧日本海軍への入隊はもう決まっていた。今なら「ばかな戦争」と言えるが、当時は日本男子の名誉と誇りだった。そんな教育に染まっていた。

 1942年1月、日本海軍佐世保海兵団(長崎県佐世保市)に水兵として入隊した。戦艦・霧島に乗艦。深夜たたき起こされ、出港したのはその年5月だった。翌朝、甲板に上がると、大海原に見たこともない大艦隊。ミッドウェー海戦へ向かっていた。

 150ミリ砲弾は重さ約30キロ。弾込め(運搬、装着)が任務だった。空一面、黒豆をまいたように、米グラマン機が襲来した。空母4隻が目前で沈んだ。やがて艦載機が舞い戻ってきたが、母艦がない。次々と海に消えていく姿を泣きながら見ていた。

 私たちはバラバラになって逃げ帰った。それが海戦の真実だ。ところが、大本営発表や新聞報道は違った。戦友たちの無念を思うと、それが今でも、どしこ(とても)許せない。

 戦後も泊まり込みの山仕事。家族で暮らしたかった。50歳を前に職人から手ほどきを受け、焼き物をこしらえるようになった。地元にちなんだ「天領窯」を今は、長女、孫夫婦が継ぐ。

 理不尽な戦争、食うや食わずの戦後。私の人生の3分の2は悔しさで腹いっぱいだ。あの開戦万歳を含めて。商いをしながら思う。人は縁で生きている。では、戦争という縁は私たちにとって何だったか。亡くなった戦友や妻のことを考える。

 (大分県日田市)


=2014/12/08付 西日本新聞朝刊=

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