昭和流行歌編<177>松平 晃 大衆に愛される歌を

歌謡学院時代の松平(右)と藤山一郎 拡大

歌謡学院時代の松平(右)と藤山一郎

 福岡市中央区の赤坂門市場の細い路地は昭和のにおいを残した空間だ。そこを歩いていると、聞き覚えのある歌が耳に入ってきた。

 〈日暮れ悲しや 荒野は遥か 急げ幌馬車 鈴の音だより どうせ気まぐれ

 さすらいものよ 山はたそがれ 旅の空〉

 幻聴ではなかった。松平晃のヒット曲「急げ幌馬車」だった。この連載中、SP、LPレコードでずっと松平の歌とつきあってきた。死後50年を過ぎ、それも戦前にヒットした曲が今もラジオから流れているのだ。

 松平晃は俗な言葉で言えば今や「幻の歌手」である。流行歌という言葉自体に流行が終われば消えていく、忘れ去られていくーといった運命を宿している。多くの評論家が指摘している通り、まさに流行歌は時代の表皮である。しかし、その表皮に時代の真実もまた、映し出されている。

   ×    ×

 昭和の初期、松平はレコードという複製化時代の始まりにデビューし、元祖アイドルとして一世を風靡(ふうび)した。戦争の時代に入ると、「急げ幌馬車」などの戦時歌謡でもヒットを飛ばし、ひいては、中国から南方戦線まで歌う慰問団として戦中を生きていく。

 松平は流行歌について多くを語っていない。ただ、「大衆のために」「国家のために」との思いは強かった。武士の血筋であり、郷里佐賀の葉隠れ精神も松平の中に色濃くあったにちがいない。

 同時代に活躍した藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇などは戦後に復活する。しかし、松平はコロムビアとの契約解除や戦地慰問による声の荒れ、戦後のブラジル公演先での大病なども重なり、表舞台から消えていく。悲運の歌手ともいえるかもしれない。

 コロムビアは松平の死後9年目の1970年、創立60周年記念として「松平晃を偲んで」(全28曲)というLPを発売している。そのレコードに同時代の歌手、作曲家、作詞家が談話を寄せている。

 藤山一郎「ステージに、映画にも主役で活躍された二枚目。惜しいライバルを私は失った」

 竹岡信幸(作曲家)「九州男児である彼はあくまで明るく、豪快で吹込室では可笑(おか)しい話をして、笑わせてくれました」

 松平が生きていれば102歳になる。松平を語る生の証言者はほぼいない。貴重な証言者の一人娘の和禾子も5年前に死去している。

 流行歌という言葉は現在、死語に近い。戦後は歌謡曲、Jポップと呼称を変えながらも歌は人々に愛され続けている。生き続けている。

 歌にかける人生。無数の松平晃=歌手たちが日本の歌をつないでいる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

 ◇次回からは「博多ロック編」を連載します。


=2013/10/01付 西日本新聞夕刊=

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