障害ではなく時代が憎い まひ治療中、医師は戦場へ

身ぶり手ぶりを加えて体験を語る上村慶子さん=鹿児島市(撮影・古瀬哲裕) 拡大

身ぶり手ぶりを加えて体験を語る上村慶子さん=鹿児島市(撮影・古瀬哲裕)

施設の職員と談笑する上村慶子さん(左)。「今が一番楽しい」という(撮影・古瀬哲裕)

鹿児島市 上村慶子さん(76)
 パステルカラーのカーディガンがよく似合う。鹿児島市のデイサービス施設を訪ねると、上村(かみむら)慶子さん(76)が電動車いすで迎えてくれた。職員に「おしゃれにしとるね」と声を掛けられ、ちょっと照れながら。

 今回の「証言をつなぐ」特集のテーマは「障害者と戦争」。上村さんも四肢や顔に障害があり、もう70年以上、歩いていない。

 「戦争がなければ歩いていたかもしれないんです。情けないですよ」

 真っ先に振り返ったのは6歳、1944年ごろの出来事だった。生後すぐ、足がまひして力が入らなくなっていたが、母の親戚に医師がいて、専門的な治療を受けるチャンスが巡ってきた。激痛で泣きわめくほどだった施術の直後は、立って1歩、2歩、3歩、足を前に進めることができた。

 「母はね…、泣きましたよ。慶子が歩いた、慶子が歩いたって」

 もう一度、集中治療を施せば改善する可能性があると言われた。「一緒に歩く練習をしよう」という医師の言葉に、目の前が明るくなったことを覚えている。

 しかし、その機会は訪れなかった。戦局が厳しさを増す中、医師は戦場へと駆り出され、帰ってこなかった。

 歩けない少女にとって、戦争の記憶は母の背中とともにある。45年4月8日、鹿児島市の市街地が本格的な空襲に見舞われたときもそうだった。

 自宅近くの温泉を訪れていた。少しでも足が良くなるようにと、湯に漬かり、母にさすってもらうためだった。

 パタパタパタ…。母におぶわれ、外に出たところで音がした。「スズメの羽音だよ」と話し掛けた直後、爆弾が次々と降ってきた。

 温泉の煙突も屋根もあっという間に壊れていく。裸で逃げ出す人もいた。近くの防空壕(ごう)はどこも満員。母は自分を背負ったまま、狂ったように叫びながら自宅へと走った。近所で大勢の人が死んだ。

 背中越しに伝わる母の涙に、幼心に申し訳ない気持ちが膨らんだ。しびれる手足がもどかしかった。

 「大きくなっていく私をおぶう母は大変だったと思います。憎いですよ」 障害そのものではなく、あの時代が憎かった。
 

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