戦時「弱者」は非国民 「菊池恵楓園」生を問い

 そのころはもう、毎日のように空を行く米軍機を見上げていた。だが、病者である自分たちが標的になるとは、思ってもみなかったという。太平洋戦争末期、ハンセン病患者約千人が強制収容されていた「菊池恵楓園」(熊本県合志市)にも空襲はあった。

 1945年5月13日午後3時ごろ。数十機の米軍機は機銃掃射に加え、20キロ爆弾6発を投下した。6棟が倒壊、防空壕(ごう)に避難した8人が生き埋めになり、うち2人が窒息死した。旧日本陸軍の飛行場が隣接していた。療養所にとって最初で最後の空襲だった。

 自治会役員を務める杉野芳武さん(84)は当時14歳。同室の大人たちと防空壕へ駆け込んだ。静けさが戻り、外に出ると肝が冷えた。爆弾の一つは、杉野さんが生活する寮舎の隣を直撃していた。

 その日は午前6時ごろ、近くの結核療養所が空襲を受け、職員6人が死亡していた。その様子を、杉野少年は縁側に腰掛け、眺めていた。隣にいた男性が怒声を上げた。「あのやろー、物干しざおでつついちゃろか」。その男性がやがて犠牲になった。

 空襲が終わると、おやっと思った。がれきの中から男性2人がはい出してきたのだ。自力で避難できたはずだった。

 「1人は、両足が義足だった。もう1人は、戦地から戻ってきた傷痍(しょうい)軍人。2人は、自ら命を絶とうとしたのではないか。その痛い気持ちが分かるのは、もう少し大人になってからでした」。杉野さんは話す。

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 ハンセン病は当時、「不治の病」とされた。軍部やファシズムの台頭に伴い、日本は日中、太平洋戦争へと突き進む。そんな黒々とした時代のうねりの中で、ハンセン病患者の強制隔離政策も容赦なかった。

 「この非国民、穀潰(ごくつぶ)しが。おまえらがいなかったら、何個中隊が飯を食えると思っているのか」

 38年、菊池恵楓園に10歳で入所した土井繁さん(87)は戦時下、軍人から投げかけられたその言葉に唇をかんだ。外出許可を得て、仲間と熊本市内で映画を見て、療養所まで歩いて帰る途中だった。映画は3本立てで、全てが戦争に彩られていた。

 「みんなが刺刺(とげとげ)しくなっていた。心が見えなくなっていたんじゃないですか。お国のために『…らしく』とか、ヤミ(裏社会)も増えてね。世の中、随分変わっていくなと」

 16歳から青年団に入り、防空壕を掘り、空き地を開墾し、麦やサツマイモを栽培。作業をするうち、感覚を奪われた指は失われていった。食料や薬の窮乏も病状を悪化させた。終戦から5年後、両目を失明した。

 園の長い歴史の中で、戦時下の5年間だけ、年間死者数は100人を超える。「戦争をどう思っていたかですか? うーん、空虚ですかね。国や社会に反発するなんて、思いもつかない時代でしたから」

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 戦時下、心身に病や障害がある人々や家族は、どんな思いで暮らしていたのだろう。戦場で傷つき、復員した兵士たちの戦後も容易ではなかった。強兵、強者の時代、社会的弱者はそれぞれの「内なる戦場」で、生との闘いを続けていた。


=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=

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